一行が最初の場所は大理石の床に柱が何本か立っている埃っぽい部屋だった。靴を脱ぐ場所がない。どうやら西洋風の暮らしを取り入れた屋敷のようだ。
祐一が足を一歩踏み出し最初に目がいったのは乱れた埃だった。おそらく真琴たちがここから内部に侵入したのは間違いないだろう。
そして最初に感じたものは悪寒。何かはわからないがとにかく得体の知れない何らかが全身に鳥肌を立たせていた。ここは間違いなく本物だ。
「うわー、外もすごかったけど中もすごいね。映画に出てきそうだよ」
「そうだな。どれだけ金をかけたらこれだけの家が建てれるんだか?」
「金というものは無いか沢山あるかの二つ。ここに住んでいたのは間違いなく後者ね」
祐一を以外の3人も次々と内部に足を踏み入れてきた。
こいつらは何も感じないのか?自分には言葉を口から出す余裕もないというのに…。
そう思って祐一が後ろを振り向いた時だった。彼の目に僅かな音を立てながら亀裂を広げていく天井がうつった。
そして亀裂の下には一人の少女が。考えるよりも先に体が動いた。
「危ない!!」
祐一の腕が栞を抱え飛び退く。間一髪だった。もし祐一の反応が一秒でも遅れていたら栞は雪崩れ込んできた土砂の下敷きになっていただろう。
「あ、ありがとうございます」
自分の腕の中にいる栞の無事を確認しても祐一の表情に安堵は現れなかった。
悪寒。先ほどまで感じていた気配よりも比べほどにならないほどの強い何か。それが背後に現れた。
「おいっ!大丈夫か!?」
「栞!相沢君!怪我は無いの!?」
「出口が!!」
祐一が質問に答える余裕は無かった。
「だ、大丈夫です。祐一さんがいなかったら危なかったですけど。あ…出口ふさがっちゃいましたね」
危機が去ったと思っている栞だけが3人の質問に答えた。
「あの…どうかしました祐一さん?出口なら窓からでも出れば大丈夫だと思いますよ」
恐怖。感じたのはただ強い恐怖。歯の根が震え足がぐらつく。少女をつかむ手に自然と力がこもる。
知覚はできないがおそらく体中から冷や汗を噴出し、体温が下がっていることだろう。
そして最後に…予感…死の予感。
振り向きたくはなかった。だが、目をそらせ続けるだけの心はなかった。振り向く祐一。
そこには何もいなかった。だが気配は大きく膨らみ続ける。視線が動かせない。
「……………」
そんな様子の祐一を他の4人は不思議そうな目で見つめていた。彼らには祐一が感じているものは何も感じられていないようだ。
彼らに祐一が何を感じているかが理解できたのは、祐一の視線の先にわずかずつだが何かが現れてからだった。
理解し始めてから10秒ほどでそれは完全な形に至った。人だった。宙に浮き、背後の景色が透けて見える女性だった。
それは自分たちの理解が及ばない何かだった。そして超常の存在だということだけを理解できた。
「屋敷を荒らす愚か者がぁ!生きてここから出すわけにはいかん!うちの恨みを思い知るがええ!」
恐ろしい形相だった。恨み。彼女はそう口に出したが、まさに彼女の恐ろしい形相は強烈な恨みが生み出したものだった。
言う事を言うと彼女は出てきたときと同じように消えていった。後には不自然なくらいの静寂が残った。
「やーーーーーーーー!!何あれ!?何あれ!?何あれ!?」
「落ち着け名雪!大丈夫だ!」
「幽霊だよ!幽霊だよ!私たち死んじゃうんだよ!殺されちゃう殺されちゃう!いやいや!」
「大丈夫だ!絶対に助かる!俺が何とかしてみせるから!」
「無理だよ!だって幽霊なんだよ!!何もできるわけがないんだよ!?みんな殺されちゃう!」
「黙れ!!」
「うっ…うっ…」
最後には名雪は泣き出してしまった。本当に泣きたいのは俺のほうだ。あれほど強い気を感じたのは初めてだった。
実際に死人が出ているホラースポットの側を通ったときでさえあれほどの気を感じることはなかった。
祐一は自分のおそらくは他人よりも強いだろう霊感を恨んだ。あれを感じなかったらこれほどまで死が身近にある事を自覚しないで済んだのに。
でも名雪の様に恐怖に身を任せる事は許されない。もしも皆の前でそのような事をすれば…もう助かるために足を進めることができなくなりそうだから。
「ほら…泣くなよ。俺が絶対に何とかしてみせるから…」
「うっ…うっ…」
名雪の嗚咽が響く室内に甲高い金属音が響き渡る。そして油が焼ける匂い。
北川がライターに火をつけたのだった。そして彼の口元にはタバコが一本。慣れた手つきでタバコに火をつける。
「こんな時に何してるんだよ!」
「………………」
北川は何も答えなかった。ただ、大きく息を優雅と言ってもいい落ち着いた動作で吸い込み肺の中へタバコの煙を送り込み、そして吐き出す。
慣れた様子だった。おそらく日ごろから吸いなれていたのだろう。
「相沢も一本吸うか?」
「こんな時にふざけるな!」
こんな時…自分達が今置かれている状況、命に関わるものだ。自分ほど霊感が無いだろう北川にもそれはわかるはずだ。
そんな時に呑気に喫煙をするなんて信じられない行為だった。
「一本貰える」
「もちろんだ」
「香里!」
香里は北川の懐からタバコを一本拝借して自分の口にくわえた。そしてタバコの先端を北川のそれに接触させて火をつける。
こんな状況でなければどれだけ絵になっていただろう。でもここは戦場…そう戦場だ。祐一はそう思わずにはいられなかった。
「何で二人ともそんなに落ち着いてるんだよ!」
恐怖に泣き出す名雪。恐怖を克服しようと…いや恐怖から目を逸らそうとする祐一。そして栞は先ほどからずっと蒼白になって俯いていた。
そんな中でのんびりとタバコを口に落ち着いている二人はあまりに異質であるといえよう。
「今更慌てたってどうにもならんだろ。とりあえず必要なのはこれからするべき事を定める事だ。これはその前の一服だよ」
「北川君の言う通りね。相沢君…そんなに取り乱して…また頬を優しく撫でられたいの?」
「…………………」
確かにそうだった。今必要なのは他人を慰めることでもなく、ただ生きるために手段を講じることだった。祐一は自分を恥じた。
その様子を見ていた名雪も泣くのを止めた。辺りに漂うタバコの煙が現実感を与えてくれる。
「…すまん」
「改めて聞くが、一本やるか?」
一本タバコが突き出ている箱が祐一の前に差し出される。だが手は伸ばされなかった。
「いや…俺、未成年だし」
「非常時、それも命に関わる非常時にはあらゆる事が正当化されるものよ。タバコ一本で助かるなら安いものよ」
「タバコをやると…舞に嫌われる。だからいらん」
それを聞いた北川と香里は同時にふきだした。
「彼女がいない場所でいけない事するくらいの甲斐性持ちなさいよ」
「まったくだな。最初から尻にしかれてどうする」
「あいつは鋭いんだ!前だってデートの時に、気付けに酒入れたのがキスした時にばれんだよ。タバコだったらもっとわかりやすいだろうに」
「お姉ちゃん!」
「私も一本貰います!」
「…北川君に言いなさいよ」
「北川さん!一本ください!」
「あ…ああ」
その剣幕に圧倒されながら北川はタバコの箱を差し出した。
栞はそれを箱ごと奪い取り、一本を口に運んだ。唖然としている北川からさらにライターを奪い取った。
慣れていないのだろう、数回ライターの火をつけるのを失敗してからようやくタバコに火がついた。
そして深呼吸でもするような勢いで肺腑に煙を注ぎ込んだ。……結果……部屋にうめき声が響くことに。
「うっ!こんな物をどうして平気で吸えるんですか!?」
「これが大人の趣向品って奴よ…。あと10センチ身長が伸びて、さらにバストも10センチ大きくなれば分かるようになるわよ」
「む、胸は関係ないですよ!!」
香里の腕が隠微に栞の胸に迫る。それを見て何が居てはいけない場所にいるような気がして、赤面しながら祐一は床を見つめた。
「ほら。ガールズトークを覗き見るものじゃないぞ。相沢が気にするのはこっちだ」
祐一が北川の方を振り向くと、何かが放物線を描いて飛んできた。慌てて受け止める。
それはガラスのボトルだった。ふたを開けると、独特の香りが祐一の緊張を解きほぐす。
直接口をつけると中身は上等のスコッチだった。一口含んで、すぐに口から離す。アルコール度数がきつすぎた。
「お前、いつもこんなの飲んでるのか!?」
「曜日にもよる…と言いたいところだが、まさか。こんな高い酒を常飲できるほど金をもってないぞ」
微妙にかみ合ってない会話だ。俺はアルコール度数の事を話題にしているのに北川は値段の事を話題にしている。
思わず笑みがこぼれてしまう。この二人が、冷静な二人がいるならなんとかなるんじゃないかという気になってくる。
祐一の体からだんだんとぎこちなさが抜けてきた。それは他の2人も同様であった。
「で、相沢君。これからどうする気?」
香里の瞳が祐一を覗き込む。祐一の瞳は黒く沈んでいた。
「あのさ…俺…自分のやる事に自信が持てないんだ。北川や香里の方が落ち着いてるし…」
先ほどから祐一の心を満たしているのは大きな恐怖と不安が大部分だった。。
そして生き残るための気力や勇気はそれに比較して小さかった。
「今更何言ってるんだよ相沢」
「そうよ。別に相沢君が全部決めろって言ってるわけじゃないんだから。とりあえず意見提案程度でいいから」
二人の陽気な瞳が祐一の心を少し緩める。彼は必死で気力を奮い起こし、そして考えた。
「あ…ああ。とりえずここの出口は塞がったんだから、他の出口を探さないと。それで真琴たちを見つけて帰る」
結局行き着くのはそれだった。もともとこの場所に彼らが来た理由は、先客を回収することだった。
それがアクシデントによって自分たちの命の危険がでてきた。言葉に直すならそれだけなのだから。
もっともそれが持つ意味は人生において最も重要、そして難題なのであるが…。
「ま、そんなところね」
「とりあえ全員が固まってても効率が悪いから二手に分かれようぜ」
それから話し合った結果、祐一、名雪、栞のグループと北川、香里のグループにわかれて屋敷内を探索することになった。
そしてお互いに命を預けることになるかもしれないもの同士が固まって、いよいよドアの向こう側へと踏み出し始めた。
「こんなに広いのか!」
祐一は思わず叫んでしまった。たしかにそこは驚くに足る広さだった。
目が届く範囲だけでも大きなホテルのロビーくらいの広さは確認できる。すくなくとも普通の市民が住むための広さではない。
「おい相沢。とりあえず二つ扉があるぞ。俺たちは右を調べるからお前は左をしらべてくれ」
「ああ」
言われたとおりに祐一は左の部屋を調べることにした。扉には鍵がかかっていなかったのであっさりと中に進入することができた。
部屋は20畳ほどはあるだろう正方形の部屋だった。内部には大きな机が置いてあり、部屋の壁には一枚の大きな絵が飾ってあった。
「絵…だな」
「うん、上手だね」
名雪の言うとおり飾ってあった絵はなかなかの出来栄えだった。
「これは…フレスコだな」
「フレスコ?」
「ああ。塗り立てに漆喰に色をつける技法だ」
「へー」
美しいな。この絵はこんな場所に不釣合いに美しかった。仲良さそうな3人の男女。
不機嫌そうな男。心底うれしそうな少女。そしてどこか困ったような表情をした女性。この館の住人なのであろうか?
「祐一さん。これ見てください」
「ん、なんだ?」
栞が祐一に渡したそれは一枚の紙切れだった。そこには黒い文字でこう書かれていた。
俺は国崎住人。この館の住人だ。
出口を探す奴等よ。俺の書いたフレスコをカメラで映せ。
そこに手がかりはある
「これは?」
「書置き…だね。この館の住人って書いてあるけど」
「ああ。つまりはここの住人は今現在俺たちのような遭難者が出る事がわかっていたわけだ」
メモとなっている紙はもうかなり黄ばみ痛んでいた。おそらく長い時間祐一たちのような境遇の者たちを待っていたのだろう。
果たしてこの書置きが長い時の洗礼に報いるだけの存在価値が出るのだろうか?
「しかしカメラね。さすがに今の状況でカメラなんて…」
「私持ってますよ、カメラ」
「え?持ってるのか」
「はい」
「どうしてまた?」
「荷物に入れっぱなしにしてたんですよ。怪我の功名というやつですね。さっそく写してみますか?」
「そうだな。せっかくご親切な方が教えてくださった事だし」
「ではさっそく」
荷物からデジタルカメラを取り出した栞はそれを構えてシャッターを押した。フラッシュが光り輝き辺りが照らされる。
しばらく経ってもフレスコに変化は無い。次にディスプレイを見る。そこに写ったフレスコの上に文字が浮かび上がっていた。
「なるほど、凝った仕掛けだな」
「そうだね。でも…謎ってなんだろう?」
「鍵が置いてある場所でも書いてあるんじゃないですか」
「なるほど。そうかもしれないね」
すくなくともこの時点で彼らにとっての脅威は、最初に出会った超常の存在である女性だけだった。
あの女性の霊から逃げ切れば何とかなるのではないかというのが全員に共通した思いだった。
しかしその考えが間違っており、この館がそれほど生易しい場所でない事を思い知るのはもう少し後であった。
そしてそれには大きな後悔が伴う事になるのである。
「鍵がかかってるぜ」
北川が慎重に手をかけたドアノブは一定の角度からそれ以上回らなくなっていた。
何度か同じ事を繰り返しても結果は変わらなかった。古い木材を使われたドアは不動を保ち侵入者を阻んでいる。
「どうする。蹴破ってみるか?」
「これだけしっかりしたドアを?やめておきなさい。ドアじゃなくて足のほうが壊れるわよ」
「ごもっともで。仕方ない、とりあえず相沢の方へ言ってみるか」
「そうね」
二人は固く閉ざされた扉を背に祐一たちが入っていったもう一つの部屋へと足を向けた。
中に足を踏み入れるとそこではちょうどフレスコに秘められた仕掛けを暴いたところだった。
「どうしたんだ、こんな時にカメラなんかに集まって」
「ああ北川。実はな…」
祐一は北川に今まであった事を、フレスコに秘められた秘密を説明した。
それを聞いた北川と香里は妙に楽しそうな表情をしていた。
「それで北川はどうしたんだ。確かもう一つの扉を調べていたんじゃ?」
「ああ…その事なんだがな」
今度は逆に北川が祐一に自分が見てきた事を説明した。
そしてまたも逆に祐一は楽しそうな表情を浮かべた。
「なるほど…鍵ね」
「そうだ。放っておいて別の場所に行ってもいいんだが、お互いの場所は常に確認しておいたほうがいいと思ってな」
「なんとかなるかもしれんぞ」
「なるほど、確かに鍵がかかっている」
「だろ。放っておいて先に進むか?」
「ちょっと待ってろ」
祐一は懐から何かを取り出した。ジャラリと金属音。それはホルダーにまとめられていた多目的ドライバーだった。
そこから2つの物体を選んでホルダーから外す。折れ曲がった金属の棒…キーピックだった。
「おい!なんでそんな物を!?」
「少し黙ってろ」
二本のキーピックを鍵穴に差し込んだ祐一は緊張した面持ちで慎重に動かし始めた。
作業を始めてからしばらく経ってからだった。作業者と同様に緊張した様子で見守っていた面々の耳にカチャリという金属音が響いた。
「よし!」
「すごいよ祐一!いったいどうやったの?」
「経験と知識のなせる業…とでも言っておこうか…」
興奮する名雪を前に祐一はクールに言い放った。その顔には仕事を終えたすがすがしいものが浮かんでいた。
「人としては褒められた事じゃないわね」
「ちょっとは褒めてくれよ」
「よくやったわ。犯罪者」
「…全然褒めてないような…。で、全員で中を調べるのか?」
「中に何があるのかわからないのに全員ではいるのはまずいわ。当初の予定通り私と北川君の二人でいくわ」
「それじゃあ俺たちは奥を調べてみるよ」
「そうね。何があるかわからないから…そうね20分後にここに集合ってのはどう?」
「わかった。それじゃあ20分後にここに。あ、そうだ。鍵かかってくるくらいだから何があるかわからない。3人で行った方がいいんじゃないか」
「それもそうね…。それじゃあ名雪も私たちと一緒に来てくれる?」
「うん。了承だよ」
こうして祐一と栞は屋敷のさらに奥へ、残り三人は扉の奥の探索にそれぞれかかり始めた。
屋敷のさらに奥へと進んだ二人の前には未だに広い空間が広がっていた。
さらに進もうとする2人の前に木の床に大きな割れ目、それも幅が数メートルはあろう割れ目が行く手を阻んだ。
とりあえずざっと見回した二人は一番割れ目の幅が短い場所の前に立っていた。
「割れてるな…」
「そうですね」
「まさか室内…それも1階でこんな底が見えない割れ目を見る事になるなんてな」
祐一は懐から財布を取り出した。そして小銭入れの部分から銅色の硬貨を取り出した。
「あ、それで深さを調べるんですね」
「ああ。それじゃあ…それ」
硬貨が割れ目に向かって投下された。口をつぐみ耳を澄まして音が聞こえてくるのを待った。
5秒…10秒…20秒…。いつまで経っても二人の耳に硬貨がたてた音が聞こえてくる事は無かった。
「…深いですね」
「ああ」
「もしかしたら音が小さすぎて聞こえなのかもしれませんよ。500円玉なら聞こえるかもしれませんね」
「断る!」
「非常時にセコイ人ですね…。見損ないましたよ」
「だったら自分でやれよ…」
「嫌ですよ。500円もあればアイスが沢山買えるじゃないですか」
「……………まあ1メートルにも満たない長さなんだ。飛び越えればいいさ」
よほどの間抜けか運動音痴でもない限り飛び越えられないはずがない。祐一は軽く後ろに下がると助走をつけて地を蹴った。
宙に浮き上がり割れ目の反対側へと進んでいく祐一の体。
「いぅっ!!」
そして栞の目の前でよほどの間抜けでない限り落ちないはずの割れ目に祐一が声を上げて落ちていった。
「祐一さん!!」
「ヒッ!」
もしも落ちれば祐一の体はどうなっていのだろうか。深さのわからない割れ目に永遠に落下し続けたのか。
それとも闇に飲み込まれていたのか…地面に叩きつけられていたのか?あるいは先客の歓迎をうけるのか…?
しかしそれはわかる事はなかった。割れ目の端から除く人の指。寸での所で伸ばされた祐一のものだった。
慌ててそれに手を伸ばす栞。しかし祐一の体重は小柄な栞に比べて重すぎた。祐一の体は上にあがらない。
絞首刑の縄に首を通した…それが祐一の置かれた状況に変わりなかった。
「うーん!うーん!」
「栞じゃ無理だ!一緒に落ちる!北川たちを呼んでくるんだ!」
「そんな事してる間に落ちちゃいますよ!うーん!」
ほんの少しだが祐一の体が床の上に上げられる。その瞬間に宙に浮いていたもう一本の腕が動く。両腕なら祐一は自分の体を支える以上の力がある。
ようやくの事で栞は祐一の体を全て引き上げる事に成功した。全てが終わったときには二人とも肩で大きくしていた。
「はぁ……はぁ……どうして……落ちたんですか!私どれだけびっくりしたか…」
「……………た……」
「え?」
栞は驚いていた。それは祐一の返事を理解したからではなく、その顔がかつて見た事がないほどに蒼白になっていたからだ。
祐一は栞のほうは見ず、自分の足を見ながらかすれた声でつぶやいた。
「引っ張られたんだ。割れ目を跨いだ時に…いきなり足を引っ張られたんだ。目を凝らしても何も見えなかったのに」
「そんな…」
まだあの感触…何かに掴まれた感触が足に残っている。そこが何らかに侵食されるような気がして祐一は足をさすり続けた。
「とにかく…この割れ目はやばい…何かを橋にするなりしないと絶対に渡れないと思う」
「ロープでも張りましょうか」
「もしくは何かを渡すという手もあるが…」
「うわぁぁぁっぁぁぁ!!」
悲鳴。それも男の悲鳴があたりに響き渡る。祐一たちは声のした方向、彼らがやってきた方を振り向いた。
見える範囲に誰もいない。二人は急いで元来た方へと駆け出していった。
彼らに休む暇などは与えられないのであった。
北川たちが入っていった鍵のかかっていた部屋の奥は絨毯敷きの大きな廊下だった。3人は周囲を警戒しながら先へと足を進めた。
数メートル歩くとそこで廊下が終わり、一つのドアがさらに奥へと道が続いていることを主張している。
北川がドアノブを見ると、そこには奇妙な物がまとわりついていた。それは太い縄だった。
「うーん…これじゃあ先に進めないね。ナイフでもあればいいんだけど」
「そうでもないわよ。北川君、ライター貸しなさい」
「ライター?そりゃ構わんが、焼き切るのはちょっとむりじゃないか」
北川の予測は間違ってはいないだろう。巻きつけられたロープは太く、焼き切るには少々手強そうだ。
「それと懐のボトルもよ」
「ああ…そういうことね」
ボトルを受け取った香里はロープに琥珀色の液体を染み込ませた。そしてライターの火を近づける。
「あーあ…高い酒なのに」
可燃物が染み込んだロープの燃え方は激しかった。あっという間にロープは消炭となり絨毯に残骸をさらした。
束縛がなくなってもしばらくは手が出せない。焼けたノブが冷めるまでは時間が掛かるのだ。
「どれくらいで冷めるかな」
「さあ…金属だからそんなにかからないと思うけど」
「まあのんびり待とうぜ…急ぐことでもないしな」
名雪の顔に陰り。そしてうつむき。
「私は一分だってこんな場所にいたくないよ」
しかしすぐに元ののーてんきな表情に戻った。すくなくとも表面的には健全だ…。
顔を上げた瞬間に、表情は再び変わった。今度は明確な恐怖に裏付けられた怯えの表情に。
「北川君!後ろ!」
叫んだときにはもう手遅れだった。何者かの…すくなくとも人間ではない何かの手は北川に触れていた。
北川が後ろを振り向いて見たものは人だった。形だけはだが。半透明で宙に浮いた何者かはあっという間に北川を拘束した。
存在感が感じられない腕なのに、それはまるで万力のごとく抵抗を受け付けない。
「だああああぁぁぁぁ!」
それは北川がこの場所に足を踏み入れてから初めて上げた悲鳴だった。焦りがそれを発しさせた。
焦り…そう焦り。こんな幽霊のような存在に身を預けているのだから当然だ。
「北川君!」
香里が救助の手を伸ばすが、それが届くことはなかった。
北川の体は幽霊と一緒に浮き上がり、そして水に砂糖が溶けるかのように…消えていった。
「北川君!」
消えていた視界が元に戻る。時間にしてほんの数秒の事だった。しかしその間に自分は先ほどと違う場所にいた。
見覚えのある場所。体の自由が利く。辺りを見回すと自分が居る場所に確信が持てた。
フレスコ画。ここはフレスコ画がある部屋だった。そして幽霊はもういない。
なるほど……あいつはこういう存在、人を連れ去る存在な訳だ。北川はそう思った。
問題が無いことを確認し終えたので立ち上がろうと試みる。
大きな音がしてたった一つあるドアが開く。誰かがそこに立っているだが逆光で確認ができない。
とりあえず反射的に身構える。
「誰かいるか!?」
声には聞覚えがあった。
「よお…相沢か」
そこに立っていたのは血相を変えた祐一だった。悲鳴を聞いてから急いで廊下の方へと行こうとしていたのが、気配を感じてこちらに来たのだ。
「おい!大丈夫か!?」
「なに…どうと言う事はないさ」
不安な表情で見てくる祐一に北川は答えた。安心させるために五体を動かして健全をアピールする。
それでも納得しない祐一に手身近に今までの経緯を話した。
「とりあえず名雪たちも心配だ。行くぞ。立てるな?」
「当たり前だろ。立てなくなったら捨てていけばいいさ」
北川はとりあえず目の前に差し伸べられた手を取って立ち上がった。
それから急いで名雪たち二人の所へと急ぐことに。
「なあ相沢」
「どうした?」
「さっきも言ったけど、俺が立てなくなったりしたら捨てろよ」
「………………」
祐一は何も答えなかった。ただ…その表情には肯定とも否定ともつかない複雑なものがのたまっていた。
「北川さん。そんな事はしませんよ。絶対にみんなでここを出るんですから」
「うんうん。俺も栞ちゃんが危険にあったら真っ先に助けに行こうではないか」
「お姉ちゃんよりも優先してですか?」
「そんな時の行動は決まっている。どっちも助けてうはうはするんだよ」
「私を助けてお姉ちゃんに楔を打つわけですか。そのときはお義兄ちゃんと呼ばせてもらいますね」
軽い会話を横でされている最中にも祐一の表情は複雑なままだった。
一番優先するもの…そんなものは決まっている。それはあまりにも小さな声だったので誰の耳にも…本人にすら届かなかった。
ただ…痛いほどに握り締めれられたコブシ感覚が伝わってきただけだった。
扉を開けるとすぐに異常が飛び込んできた。
扉の奥、そこから白い煙がもうもうと流れ込んできたのだ。
「な、何があったんだ!?二人とも無事か?」
「お姉ちゃん!どこに!?」
「あら相沢君、栞。それに北川君も。無事だったのね、よかった」
声が返ってきてとりあえず祐一たちは安心した。
ようやく白い煙がおさまり始めた。そこで祐一が見るぶんには、二人に外傷はなかった。ひとまず胸をなでおろす。
「いったい何があったんだよ…」
煙がおさまった廊下は白い粉で舗装されていた。元が絨毯敷きだったとは思えないほどに白が堆積している。
「あのね、祐一。北川君が連れて行かれた後に、私達人魂に襲われたんだよ」
「人魂!?そ、それで大丈夫だったのか?」
「うん。私は驚いてる間にちょっと髪を焦がされちゃったんだ。そうしたら香里が」
「香里が?」
「そばにあった消火器で人魂を消しちゃったんだよ」
なるほど、あの白い煙は消化ようの粉だったわけだ。確かに消火器で粉を撒き散らせば辺りは噴煙に塗れるわけだ。
「……………ふ」
名雪の目の前で。祐一の顔が思いっきり歪んだ。そしてすぐに下を向いて視界から消え去った。
「ふふふふ。はははははは。そうか、人魂を消火器で!そりゃ火だから消えるよな!」
祐一は笑った。腹のそこから痙攣するくらいに笑った。
なるほど、笑うしかないとはこんな時のことをいうんだな。落ち着くまで笑いは止まらなかった。
「ところで北川君はどうして相沢君と一緒に居るのよ?」
「それはだな…」
北川は祐一に先ほどしたように事情を説明した。
そして笑いの衝動から開放された祐一も自分たちの事情を説明した。割れ目に落ちたときに自分がどんな目に会ったかは言わなかったが。
「それは災難だったわね」
「まあな」
「ところでその橋にできそうなのって…あれでいいんじゃないの?」
香里が廊下のある一郭指差した。
そこにあったのは大きなアクリル板だった。それもあつらえたかのようにちょうどいい大きさの物だ。
「なるほど。たしかにコレならなんとかなりそうだな」
「どうするの?さっそくそれで先に進むの?」
少し考えてから祐一は答えた。
「いや…こういうのは全員でやった方がいいと思う。とりあえずこの先をさっさと調べよう」
「了解」
それは手早くする必要はなかった。扉を開けた先にはそれほど大きい空間はなかった。
いや…正確に言えばそれは不確かなのだが。
開けた先は闇だった。ライターで照らしても全体が分からないのだ。
足を踏み入れ様にも先ほどと同じように黒い割れ目が一行をさえぎったのだ。
しかもそれは割れ目というレベルではなかった。床の無い黒い空間が広がりつづけていた。
「これは…凄いな」
「そうね。引き返すしかなさそうね」
5人は闇の部屋を抜け出し、扉を閉めて闇を締め出した。
「そうだ。さっきみたいに通電してない部屋があると困るだろ。これを持っていけよ」
北川の手に握られていたもの、それは数本の大きなロウソクだった。そばにはマッチも添えてある。
「どっから持ってきたんだよ、こんな物?」
「そこらの燭台に吊るしてあったのを拝借したんだ」
「よく…見ているもんだな」
「いい男のポイントの一つは観察力だ」
「…頼りにしてるよ」
それは他意の無い本気の言葉だった。
「なるほど、これなら確かにこのアクリル板で橋渡しできそうね」
アクリル板を抱えて5人は行く手を遮っている割れ目の前に立っていた。
「でも充分に飛び越えられそうな幅なんだがな」
「止めておいた方がいい…絶対に不可能だ」
祐一は先ほどの出来事が再び頭によぎり、足をさすってしまった。
そうしている間にも北川と香里がアクリルの橋を割れ目に渡し道を作っていた。
「それじゃあ俺が実験台になってやるよ」
北川がさっそく渡された橋に足を乗せようとしている。
祐一にはあの板は闇を遮るにはあまりに脆弱に見えた。一瞬自分がやると言いかけ……そして結局は何も言わなかった。
「ほら、全然大丈夫だぞ」
祐一の不安をよそに北川は無事に向こう岸まで身を移していた。
そして他の4人も無事に身を移すことに成功した。
「よし、それじゃあ探索再開だな。さっきと同じように20分後にここに集合と言うことで」
「わかった」
「私は祐一か香里、どっちのグループについて行けばいいのかな?」
「相沢君でいいんじゃないの」
香里が北川の方を見ると、同意の頷きで返答をした。