北川たちと別れた祐一たち3人は出口などを求めて屋敷内を歩き回っていた。
薄暗い室内を一歩歩くことに埃が舞い、床が軋む。
3人は時折肌を震わせていた。季節は夏だというのに屋敷内の気温に酷く寒さを感じる。
いや…本当は気温ではなくて、なんらかの不穏な気配が寒さを感じさせているのかもしれないが。
そしえ分担探索をはじめて数分後、彼らの視界に一つの物体が映った。
広い廊下の端っこにまるでゴミのように転がされている物体。祐一は慌ててそれに駆け寄った。
「おい!生きてるか!?」
人だった。それも真っ赤に染まった衣を羽織った。
祐一は側に駆け寄って、顔を覗き込み、そして安心した。
それは自分よりは20年ほどは長生きしているであろう中年の男性だった。
自分の仲間達以外がどうなろうと知ったことではない。大切なのは、自分と…恋人と…友人…それだけだ。
「シャ……」
「喋るな!今、手当てしてやるからな」
知ったことではないと思っていても、それが目の前で死にかけている者を見捨てる理由にはならない…少なくとも自分に災厄が降りかからない場合には。
傷は背中全体に点在した穴だった。何か重いものにぶつかったかのように深く肉がえぐられている。
それを見て祐一は治療をあきらめた…。例えここに世界最高峰の医者がいたとしてもこの人は助からない。
いや…まだ生きていること自体が奇跡といえる。死が門扉を開くのは時間の問題だ。
手をこまねいている祐一の横で栞が男性の体に触れた。しばらく傷を触ってからこう言った。
「祐一さん…この人…心臓が動いてません」
「……どういうことだよ?」
祐一の背中に冷たいものが…。この状況なら冗談にならない言葉だったからだ。
「つまり…死んでいます」
「でも…こいつはもがき…喋っているぞ」
「傷口のいくつかに生活反応が見られません…間違いなく…」
死んでいる。栞は言葉ではなく表情でそれを祐一に語った。
そして祐一と栞の側では今も苦悶の表情とうめきを携えた犠牲者が存在していた。
「それじゃあ…なんだ?コイツは生きながら死んでいる……と」
「そう…いう事になりますね」
「馬鹿な!そんな事があるわけが!」
「…信じられないことでも目の前で起きていれば現実です」
「だったらそんな現実は必要ない!」
目の前でもがき苦しんでいる者が死んでいる。
栞がさらに詳しく理由を説明しているようだが耳に入らない。心拍数が加速度的に増し、その激しい音だけが耳に響き渡る。
自分も…ここで死んだら…こんな風になるのか。死ねもせず、ただ苦しみをあじあためうだけに、意識をもちつづける。
汗が体全体から噴出し、呼吸も荒くなってきた。地獄での苦行が約束された死刑囚の気持ちとはこんな物なのだろうか?
……いや…死んでたまるものか。俺はこんな所では死なない。
例えどんな手段を用いてでも…例え後から後悔したとしても…絶対に生き残ってやる。
祐一は無意識の内には真っ白になるで拳を強く握り締めていた。
「いや……」
祐一たちの後ろで声がした。それまで黙って状況を見るだけだった名雪の発した言葉だった。
「いや…いやだよ…」
泣きそうな顔だったが、涙は流していなかった。
「もういやだよ…怖いよ…お母さん…」
「名雪さん…泣かないでください。祐一さんがいます。絶対に大丈夫ですよ」
俺がいるから大丈夫か。だったら俺は誰に安全を保障してもらえばいいんだろう。この死者が支配するゆがんだ場所で。
「…行くぞ」
祐一は名雪の見ないで歩き始めた。
「………リア…」
後ろではまだ死にきれない亡者が声を上げている。だが振り向こうとはしない。何を言おうが関係ない。俺たちはまだ生きているんだから。
一方の北川&香里の探索班は大広間を抜け、一つの扉の奥に足を踏み込んでいた。
「これはまあ…凄い有様だな」
彼らの目の前には更に奥へと続く扉が存在していた。扉には鍵もかかっていない。
ただ、彼らと扉の間には、t単位でないと表示が困難であろう大きな岩と土砂が行く手を遮っている。
扉に手は届き、鍵もかかっていないが土砂と岩が使えて扉はその重量とは反対にmm単位しか開こうとしない。
扉自体も丈夫な金属と樹脂で出来ており、破壊して先へ進むのも素手では不可能だろう。
北川が試しに側にあった石を思いっきり投げつけてみたが、表面に僅かに傷がついただけだった。
「これは…岩をどうにかしないとどうしようもないな」
「北川君、男でしょ。何とかできないの?」
香里の目の前で北川は岩を押してみるがぴくりとも岩は動こうとしない。
「美坂のためなら例え火の中水の中。だけど現実は散文的なものだ、これはどうしようもない」
これを素手で動かそうと思うなら、それこそ文章の中でしか存在しないような超人的な力が必要となるだろう。
しかし彼らの中には超人は一人も存在しない。何か現実的な手段を考える必要があるのは確かだ。
「現実は散文的ね。じゃあ今私たちが置かれている環境は?」
「事実は小説より奇なり」
「もっとな意見ね。ありがたみには欠けるけど」
つまり文章の中に存在する冒険家や探偵の真似事をする必要があるわけだ。
香里も試しに岩を押してみたがやはりぴくりともしない。二人でやっても同様だろう。
「ま、最初から期待はしてなかったわ…」
「ちょっと…いや、大いに期待を持って欲しいものだが」
「何事も実績が大切なのよ。信頼って奴はね」
「なら、ここで実績を作るよう頑張らせてもらいますか」
「一応期待はしてあげましょう」
「恐悦至極」
とりあえず扉を開けることはあきらめて彼らは他の場所へと探索の触手を伸ばし始めた。
次に彼らが見つけ出した部屋は先ほどの部屋と違ってさらに奥へと続くような扉は無かった。
閉じた部屋で存在感を放っている物は、壁に展示されているフレスコ画だった。
「2枚目発見ね」
「ああ。また脱出に一歩近づいたな。だがカメラが無い事には手の出し様がない」
フレスコ以外に二つの大きな机が置いてある部屋にはさまざまの物が置いてあった。
北川はそれらの物色を開始した。香里はそれには参加せずに、手元にあったペンと紙を使って屋敷の地図を描き始めた。
北川が最初に目をつけた物はロウソクの詰まった箱だった。痛んだ紙の箱の中には、真っ白く太目のロウソクが10本ほど詰まっていた。
同じ箱は他にも4箱ほどあり、彼はその全てを自分の持っていたカバンの中に詰め込んだ。
これからどれだけ通電の停まっている区画が存在するのかわからない限り、彼の判断は正しいといえよう。
次に彼が見つけたものは一枚のメモだった。ロウソクの箱とは違い、まだ新しい。
「美坂。これ見てみろよ」
「何?………なるほど。とりあえず相沢くんの探し人がこの屋敷にいるのは確かみたいね」
「ああ。俺達と同じように出口をさがしているらしいな」
「相沢君がこれを見たらどう思うかしら?」
「さあな…ま、生きていてくれたらいいなとは思うよ」
二人はそこで会話を止めて、それぞれの仕事へと復帰した。
あらかた物色を終えて北川は腰を下ろした。役に立ちそうなものは結局ローソクだけだった。
一方の香里も目的を終えてペンを机に置いていた。紙の上には美しい直線と曲線で構成された絵が完成している。
とりあえず二人は無言の内に予定の時間までここで休むことを決定していた。
そんな二人に突如自分たちを呼ぶ声が響き渡った。やれやれ、休憩は30秒ほどで中断されてしまった。北川は腰を上げた。
まあ探しに行く手間が省けたな。口の中だけでそう呟いた。二人は整然と、それでいて迅速に扉の外へと飛び出していった。
祐一&名雪&栞の3人が探索を再開し、結果見つけたものは、鍵のかかった扉だった。
それも開錠の名人でも手の出し様がないカードロックを使った電子錠だ。規定外の方法でコレを破るには専用の器具と高度の知識が必要とされるだろう。
しかも扉は分厚い金属の塊で破壊する事も不可能に近い。しょうがなく3人は扉を無視して先を急いだ。
そんな時だった。祐一の靴紐が解けた。靴の持ち主はそれを結びなおすためにその場に屈み、他の二人は彼の前を歩いた。
目的を果たして視線を上に上げる過程で、先行する二人の頭上に巨大な照明器具が輝いるのが目に入る。。
その時、先ほどの生きた死体が喋っていた言葉の断片が繋がった。シャンデリア。死者にとっての無念の具現。
「二人とも避けろっ!」
祐一が声を上げたときにはもう遅かった。シャンデリアを天井に繋ぎ止めていた唯一の鎖が悲鳴を上げ、降伏した。
巨大なシャンデリアが重力の手のなすがままに直下に落下した。
ガラスと金属の砕け散る音、木の板が重量に負けてへし折れる音、そして悲鳴。
大きな音があたりに響き渡った。栞は何が起こったかさっぱりわからなかった。
ただ、シャンデリアが落ちてくるのを最後に目を閉じたところまでは覚えている。
私は…どうなったんだろう?もしかしてもうあの世に着いたのかな?
何か生ぬるいものが自分の顔に降りかかってきた。それも一度ではなく何度も。恐る恐る目を開けてみる。
「祐一…さん」
栞の目の前にあったのは彼女にとって大切な人の顔だった。私に覆いかぶさるようにして動かない。
再び赤いしずくが頬に降ってきた。それは祐一さんの傷ついた額から際限なくあふれてきている。
私を庇ったせいで…私のせいで…祐一さんが怪我をしてしまった。
混乱して何をしていいのかわからない。ただ、無意識のうちに手を祐一さんの頬に添えていた。
「外れちゃったよ」
「残念だね」
誰かの声が聞こえてきた。それは栞の知っている声ではなかった。声のするほうに視線を向ける。
そこにあったのは人形。伯爵令嬢が愛用しているような西洋の人形だった。
人形といっても愛嬌はまったく感じられず、人の形を持つものが放つ
「どうする?」
「わたしたちで殺そうか」
その言葉と同時にどういう力が働いたのか、人形が宙に浮かび上がる。
栞の目の前から祐一の体が飛びのいた。一直線に人語を発する人形に襲い掛かっていったのだ。
いつの間にか祐一の手には金属の棒が握られていた。この状況に不釣合いな、金色に光り輝く物体。
おそらくは先ほどのシャンデリアの残骸の一部であろうそれで、
「がぁぁっぁぁぁぁぁ!」
祐一の咆哮が栞たちの耳に響く。それは普段彼女たちが耳にする、人を食ったようで、それでいて優しい声ではなかった。
殺気に満ち、他者を威圧する叫び声。それはまさに獣の叫びだった。
そして叫びと同様に殺気がこもった鉄塊が一直線に振り下ろされる。
陶器を床に落としたかのような音が響き渡る。
金属棒の一撃で呆気ないほどに最初の人形は砕け散った。
そして二体目に視線を定める。ひん曲がった棒を投げ捨てて無手で人形に突進する。
宙に浮いた人形が慌てて逃げようとしたが遅かった。高速で飛び掛ってきた猛禽の目をした人間に頭をつかまれる。
人形を捕まえても祐一の勢いは衰えなかった。そのままの速度を維持して目の前に壁に突進する。
突進は壁にぶつかったところで止まった。手に持っていた人形は漆喰の壁に食い込み原型が半分ほど残った状態になっていた。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
祐一は、人形の完全破壊を確認してから四肢をついて呼吸を整える。無理な動きをしたせいで全身の間接と筋肉が悲鳴を上げている。立っていられない。
視界がおかしい。左目が痛い。目を拭うとぬるりとした感触が手の甲に広がる。祐一はようやく自分が流した血のせいで視界が奪われことに気がついた。
無事に視界を確保し続けている右目が一人の少女が側に来ていることを捉えた。自分が命を賭けて守った女だ。
「名雪は…?」
喉の振動が、額に出来た水溜りから赤い雫を落とした。
「………」
「名雪の奴は大丈夫か?」
祐一のその一言は、栞に今この場に自分と祐一以外の人間がいる事を気づかせた。慌てて辺りを見回す。
こんな事になったのに名雪が悲鳴の一つもあげていない事実に気が付いて、栞は心に焦りの色を広げていた。
そしてようやく残骸とかしたシャンデリアの側にその姿を確認することができた。名雪は無事だった。悲鳴も助けも求めなかった理由もはっきりした。
「名雪さん!?しっかりしてください」
栞が何を言っても、肩を揺さぶろうとも何の反応を示さない。完全な放心状態、これが無音の理由だったのだ。
放心状態の名雪はひとまず置いておいて、栞は祐一の方を気にすることにした。
「祐一さん、名雪さんはとりあえず無事です」
「…そうか」
名雪の無事を聞いた祐一はとりあえず安堵の表情を浮かべた。その間にも床に出来た池は着々と大きく成長している。
その成長も、栞が傷口にハンカチを当てたことで中断された。
「すごい沢山血が出てます…」
「大した事はない…と思う。頭の傷は出血が大きいからな」
「私のために……すいません」
「目の前で死なれたら目覚めが悪くなるからな。それに恩ってのは一番確実な投資だからな。とりあえず売ってみたんだ」
突然祐一の傷口のあたりの皮膚に生暖かい感触が広がった。
「だぁぁぁっ!!」
人形を叩き潰したときの3倍はあろうかという速度で祐一の体が後方にしりぞいた。
女の子に傷口を舐めてもらうなどまったくの予想外、兼、未経験の事だったからしょうがないが。
「な、何をするんだ!?」
「えーっと、一応治療の一環なんですけど」
「そ、そ、そ、そ、そ、そんな事されても困る!!」
「非常時ですから」
「非常も異常も通常の3倍もない!そういう事は相手を選んでやれ!」
「選んでますよ」
意外なほど真剣な表情で栞が祐一にまっすぐな視線を向けた。
「俺…付き合ってる人がいるから…」
「祐一さんは命の恩人ですから。それも2回も」
その言葉を聞いて祐一に安堵が浮かぶ。それを見た栞は陰りのある表情を見せた。しかしそれはほんの一瞬のことだったので、祐一がそれに気がつくことはなかった。
祐一はその後に傷口に栞が持っていた包帯を巻きつけてもらった。そして放心している名雪をどうにかする為に腰を上げた。
シャンデリアの魔の手から逃れた彼らは、広間で手身近にあった扉の前に立っていた。
埃に塗れた扉のノブに祐一が慎重に手をかけ、力を込める。すると小さな金属音と共にドアは抵抗無く開いていった。
僅かに開いた隙間から僅かな明かりが差し込んでくる。人工的な光ではない、淡い太陽光だ。
この扉は外に通じていたわけだ。それを見た名雪は歓喜してドアを完全に押し開けた。
「やったよ!外に出れたよ!」
「馬鹿!行くな」
外へと駆け出そうとした名雪の手を慌てて引っ張る。勢いのついていた体が祐一の手によって引っ張られて急停止する。
名雪が踏み出そうとしていた場所には、幅10mほどはあろう濁流が外への道を遮っている。
もしも祐一が手を出してなかったら、名雪の体は濁流に飲まれていただろう。
「落ちたら向こう側に着く前に溺死体になるぞ」
「でも私泳ぐのは得意だもん!絶対に向こうまでいけるよ!!」
二人の言い分には祐一の方に分があった。激しい流れ、完全にはわからないがかなり深そうな底、そして時々流れてくる木々。
そして何よりも…祐一が心配していたのは異常な存在。生者を死へと引き込もうとする存在が居るかも知れない。
ここに飛び込んだら間違いなく命はないだろう。しかし切羽詰っている…いや、恐怖が心を支配している名雪にはそれがわからない。
ただ目の前の太陽の指す場所が広がっている事が全てだった。
「名雪さん!止めてください!」
「落ち着くんだ!死にたいのか!?」
「離して祐一!」
陸上部で鍛えた体は伊達ではなかった。じわりじわりと名雪の体が水際へと進んでいく。
ついに大きな水音を立てて体が濁流の中へと飛び込んだ。流れは想像以上に激しかった。名雪の体は勢いに飲まれて身動きを取れないでいる。
祐一はかろうじて名雪の手を放さずにいたので、名雪はなんとか飛び込んだ場所から離れずにすんでいるが。
最初は現状維持だけで精一杯だった祐一だったが、栞も一緒になって引き上げることによってじわりと体は陸へと近づいていく。
必死で名雪の体を支える祐一の手に名雪の開いていたほうの手が添えられる。そして何を思ったのか、唯一の支えを外そうと動き始めた。
「放して祐一!」
「馬鹿!放したら死ぬだろうが!」
「いいもん!ずっとこんな場所にいるくらいなら死んだほうがいいよ!」
「このっ、死にたがりが!そんなに死にたいなら俺達の盾になって死ね!こんな所で死ぬな!」
言っている間にも祐一は必死で名雪の体を陸の方へと近づけていった。名雪の抵抗は途中でなくなった。
「祐一さん!そんな言い方は!」
「いいから引っ張れ!苦情は後だ!」
それから格闘をすること一分ほど、名雪の体は陸へと完全に乗り上げることに成功した。
「はぁーはぁー」
「ふー」
ようやく名雪を引き上げた時には、命の恩人である二人は肩で大きく息をしていた。
一方、被救出者の方は肩を震わせて涙を流していた。
「ほら!行くぞ!」
休む間も空けずに祐一は疲労した体の要求を無視して立ち上がった。
「祐一さん!さっきも言いましたけどそんな言い方は!」
「ずぶ濡れのままここに居るわけにもいかない。とりあえず服を乾かさないといけないんだ」
「でも…」
「……俺だって好きで言ってる訳じゃないんだ…。ほら立て名雪」
栞はそれ以上何も言わなかった。ただ黙って先ほど入ってきた扉の側へと身を寄せた。
「…………」
「聞こえなかったのか?立てと言ってるんだ」
祐一はまだ泣いている名雪の手を取って無理やり立たせようとした。
それでも名雪は立とうとしない。頭を抱えて地にうずくまったままだ。
「名雪が恐怖におびえてそこでうずくまり、絶望して、何かも投げ出してそこで死ぬのはお前の勝手だ」
祐一の声は冷たかった。
「その時お前がどんな目にあうかは知らんがな」
「………」
「お前が死んでも俺は悲しまない。嘆かない。涙も流さない」
「………」
「ここでは…死が支配するこの館では、生きているものが一番尊いからな」
「…………」
「そして全てが終わったとしても、ここから出られたとしても、お前の事を思い出して悲しんだりはしない」
「……………」
「ただ生きる事を放棄した馬鹿がいた事が記憶の片隅に残るだけだ」
「…………」
「でもな…他の全員が生還したとして、秋子さんの嘆きを聞かされるのは多分…俺だろうな。憎まれるかもしれない」
「…………」
「いいか…死にたくなかったら立つんだ。俺もできるだけの事はしてやる」
最後の声は少しだけ、最初のものよりも暖かさを感じさせるものだった。そして差し伸べられた手も、優しさを感じさせた。
「いい子だ」
ようやく名雪は差し伸べられた手を握り締めた。ゆっくりと体が地面から浮かび上がる。
「とりあえず北川たちと合流するぞ」
また川へと飛び込むのではないかという不安もあったが、名雪はとりあえずはこっちの言う通りに動いてくれた。
屋敷に入った祐一たちは、とりあえず北川たちと合流するために行動することに。
「北川!どこに居るんだ!?」
返答はすぐにあった。少し離れた場所の扉が開き、そこから二人の男女が姿をあらわした。
「どうした?何かあったのか?」
「見ての通りだ…」
北川たちが近づいてきてから祐一は名雪を指差した。
「服を乾かす必要がある。どこかの部屋で火を焚けるといいんだが」
「それならさっきまで俺達がいた部屋がいい」
その部屋は最初のフレスコ画が見つかった部屋と同じつくりだった。そして同じようにフレスコ画が飾ってあった。
しかしそのチェックは後に回して急務を先に始末することに。
祐一と北川が二人掛りで床板を引っ剥がして部屋に運び込む。
そして火が燃え広がらないように細工をした床にそれを並べて火をつけた。そうなったら男二人は用済みだ。
二人は黙って部屋の外で待機することに。
「感謝しろ。この俺が相沢のために一肌脱いでやろう。お前を通常の3倍は男前にしている血に濡れた包帯を外せ」
「なんだよ突然?」
「包帯が血で真っ赤になってるぞ。ちゃんと処置しておかないと出血で身が持たなくなるぞ」
「そんなに酷いのか?」
「それを今から確認するんだろうが。俺に男の服や装飾品を剥ぎ取る趣味はないから、自分でとっとと外せ」
祐一が包帯を取ると傷口が露になる。そして包帯を外したことで再び顔面に生暖かいものが流れ始めた。
「ありゃりゃ…。結構深めにざっくりといっちゃてるな。出血も止まってないようだ」
感心するように傷口を観察した後、北川は自分のカバンに手を突っ込んでごそごそやり始めた。
床の上に大量の物資が積み重ねられてようやく目的の物を見つけたようだ。
彼の手には小さな物体が握られていた。その物体に祐一は見覚えがあった。医療用の針と糸だ。
「な、何をするつもりだ」
「もちろん縫合だ。傷口をこの針と糸でつなぎ合わせてやろう」
「冗談…だろ?」
「本気も本気。超本気」
「いい…遠慮しておく」
冗談ではない。素人の手で傷口を縫われるなんてたまったもんじゃない。治療どころか傷を悪化させるのがオチだ。
「このまま放っておくと包帯突き抜けて血が顔中を染め上げるぞ。そうなったら彼女責任を感じるんじゃないかね」
「う……」
それを言われると弱い。責任を感じて目の前で女に泣かれるのは心臓に悪すぎる。
「降伏。…好きにしろ」
祐一は頭の上に両手を上げてため息をついた。
「安心しろ、解剖なんてしないから」
「されてたまるか!」
「はーい、大丈夫ですよゆういちくん。いたくありませんからね」
「気持ち悪い声を出すな!だいたい麻酔無しなんだから痛いに決まってるだろう!」
「そう…相沢は俺のモルモット。切られ、突かれ、苦痛の悲鳴を俺にきかせてみろ」
「わかったから…早くやって」
傷口を消毒した後に北川が手早く傷口の縫合を始める。祐一の額に定期的な鋭い痛みが走る。
意外にも北川の手際は、普通の医者…とまではいかなくても医者の卵、と言ってよいほどの手際の良さだった。
「どこでこんな技術を身に付けたんだよ?」
目の上で細々と動きつづける手の動きを追いながら、感心したように祐一は呟いた。
「色々な遊びをしているとな、やばい橋も沢山渡ることになる。その過程でだ。よし、完了だ!次からはもっとスマートに救助活動をするんだな」
「あ、ありがとう」
「今回は上手くいってよかった。傷痕はほとんど残らんだろう」
「…今回は?」
「縫合するのはこれで二度目だからな」
「一回目は……どうした?」
「ああ…左腕をざっくり斬られてな。必死で縫合したんだ。ただ焦ってたせいで上手くいかなくてな。傷痕が派手に残っちまった。見るか?」
「遠慮しておく」
祐一が見たいものがあるとしたら、それは北川の傷口ではなくて過去の所業の方だった。そしてそれを聞けるほど彼は無神経な男ではなかった。
「で、何があったんだ?」
真新しい白い包帯を額に巻いている祐一に北川が尋ねた。
「……………」
「言いにくい事なのか?言ってみろよ、俺にだけでいいから」
人懐っこい笑みを北川は向けてきた。…まあ隠すことでもない。祐一は口を開いた。
「外へ出る扉を見つけたんだ…でも川が行く手を遮ってたんだ」
「はぁーそれで足を踏み外したわけか…災難だったな」
「違う…名雪の奴…外を見たとたん精神のタガが外れたみたいでな。取り乱してそのまま外へ出ようと川へ飛び込んだ」
「…そうか」
「なんとか助けたのはいいが…あいつはこう叫んだよ『ずっとこんな場所にいるくらいなら死んだほうがいいよ!』ってな」
「……」
「俺…あいつがあんなに精神的に弱いなんて思ってもいなかったよ」
「人は追い詰められると本当の自分にめぐり合う……か」
それはまさに真実だな。名雪は半狂乱になって生きることに絶望している。
そして俺は……恐怖に狂いそうになりながらなんとか正気を保つ。怯えながらそれを隠し…。
何より……他人を義性にしてでもいいから助かりたいと思っている。
はっ!俺達の盾になって死ね!か。我ながらよくも言ったものだ。無我夢中の中で叫んだ台詞だったが…あれが俺の本性って奴か…。
そして最後に取ってつけたような優しさ。一体何をやってるんだ。そう思わずにはいられない。
あの時も、シャンデリアが落下を始めたときに勝手に体が動いた。気が付いたときには栞を抱えて飛びのいていた。
自分が一番大切なくせに他人のために命を生死の境に晒したんだ。命に関してはエゴイストに徹しようと考えているのに。
自分の行動すら自分の意志で行うことができないなんて。俺はこんなに甘ちゃんだったのか?
「一つ頼みがあるんだが…」
「珍しいな。相沢が頼みなんて」
「名雪はお前と香里で面倒見てくれないか」
「どうして?」
「俺…あいつが次に取り乱した時に…守ってやる自信が無いよ」
そして何より…足手まといになる。酷いことを考えているな、我ながら。
友人を…家族を…足手まといと言っている。そしてその足手まといを友人に押し付けようとしている。
最低だな。自分が嫌になる。自分がよけりゃそれでいいんだ。反吐が出る。
「却下」
「ど、どうしてだよ!?」
「あれで水瀬の奴はお前の事を信頼してると思うからな。美坂の奴もそう言ってたし」
「でもっ!」
「俺達と一緒にいるより相沢と一緒にいるほうが取り乱すことが少ないのは確実だ。だから俺は断るわけだ」
「………………」
「俺ってフェミニストなのよ。例え自分の利益にならなくてもな」
そういう言われ方をすると反論できないじゃないか。
名雪が俺を信頼している…か。俺にはよくわからないけど。今はそれが重い。そして…こんな状況で人の事を思い、考えてやれる北川を心底尊敬した。
「ま、最後まで一緒にいてやるんだな」
最後まで…か。それはあいつが死ぬときか、もしくは俺が死ぬときか。さて、どちらか…?祐一は考えをやめ、そこで頭を振った。
両者が助かる事を選択肢に入れていなかった自分に再び嫌悪をいだいた。
その時、金属音が鳴り響き、それに続いてドアの軋む音が辺りに響き渡った。
部屋の中から出てきたのは栞だった。彼女は入ってきたドアを閉めると祐一の隣に腰を下ろした。
祐一の肩に重みがかかった。腰を下ろした栞がよりかかっていた。
「お…」
何かを言いかけて、口をつぐむ。恋人のいる自分がこんな事を許容するのは誠実なことではないのだ。
それでも、あえて拒絶するようなことはしなかった。今の状況で、人のぬくもりは何よりもありがたかった。
「名雪の様子はどうだ?」
「ある程度は落ち着きました。今はお姉ちゃんが慰めモードに入ってます」
「そうか…。それじゃあ服が乾きしだい出発だな」
「祐一さん…」
「どうした?」
「あの…名雪さんにもっと優しくしてあげてください」
非難するような、それでいてどこか悲しそうな目をしていた。
それを見て祐一は思わず視線をそらしてしまった。
「………………」
横を見ると北川は我関せずといった感じで懐からタバコの箱とライターを取り出していた。
それを卑怯な態度とは思わなかった。これは俺の問題だから。
「名雪さん、精神的にかなりまいってますよ。それなのに追い詰めるようなことをされたら」
「もっと心が壊れる…か」
「分かっているなら」
「………やれるだけ…やってみるよ」
俺だって、余裕があるわけじゃないんだ。そうは言わなかった。
先ほど俺がしたように今度は栞の方が視線から逃れるように顔を横に向けていた。
…今の俺はいったいどんな表情をしているんだろう?
そう思っていたときに、祐一の背中からドアが開く振動が伝わってきた。後ろを向くと香里が立っている。
「名雪、もう大丈夫なのか?」
「大丈夫。もう服は乾いたわ」
「いや…それもあるんだが」
祐一が聞きたかったのはその事ではなく名雪の精神の状態の方だった。泣かれたりしていたら、どうすればよいかわからない。
「安心しなさい。もう充分に落ち着いてるわよ」
祐一の考えを読んだかのように香里が名雪の状態を教えてくれた。
普段なら自分の考えが読まれる事に羞恥を覚えるが、今この場ではそれがありがたかった。
部屋に入ると乾いた服を着た名雪が中央部に腰を下ろしていた。
「……………」
「……………」
祐一も名雪も同じように何も喋らなかった。沈黙を守って視線を交差させていた。
違うのはその動機だ。祐一はかける言葉が見つからず、名雪は祐一に慰めの言葉をかけてもらいたかったからだ。
「あ、あの、フレスコがあるんですから隠されたメッセージを調べましょう」
沈黙に耐えられなくなった栞が口を開いた。それはある意味では沈黙していた両者を救うことになった。
少なくともこの場での対話は終わったのだから。今後の事を考えれば何かを語っておくべきであるのだが。
その場にいた全員はフレスコに向き合う。
その部屋は最初のフレスコ画があった部屋と同じような構造だった。正方形の部屋、その中に長い机と椅子が並べられている。
肝心のフレスコ画は扉の正面にある壁に飾られている。
そして最初に見つけたフレスコにやったように栞が持っているカメラで撮影を開始した。
フラッシュの光が網膜を刺激したあと、フレスコに文字が浮かび上がるのが目に映る。