「岩?そんなのどこにあったかね?」
祐一が小さな声で呟いた。彼に覚えがある岩といえば最初の玄関ホールの土砂だけだ。
しかしあれらは道具があればどうにかできるレベルではない。少なくとも機械力が必要なはずだ。
もっとも仮にここに重機があったとしても…出口を切り開けるかどうかは怪しいものではあるが。
「ああ…それならあそこの事だな、美坂」
「間違いないわね」
一方の北川たちは、岩と聞いてすぐに思い当たるふしがあった。ついさっきまでいた部屋なのだから。
二人の反応を聞いた祐一はその場に案内してもらうことになった。
道を塞がれていると言うことは、そこに何か重要なものがあるのに違いないのだから。
「これは…すごいな」
祐一たちの目の前には先ほどと同じように、少量の土砂、そして一メートルほどの大きさをした岩がいくつも転がっていた。
そしてそれらに隠れるようにして金属製の扉が僅かに顔をのぞかせていた。
玄関と違って土砂に埋もれたりしていないので、岩さえどうにかすれば先へと進めそうだ。祐一はそう思った。
一番手前に転がっていた岩に手をかけた。全体重を乗せて押そうが引こうが岩はピクリとも動こうとしない。
岩はただ重いだけでなく、下何割かが床を砕いてめり込んでいるのだからなお更動かすのは困難だ。
「これは…例えここにいる全員で押しても駄目だろうな」
「同感ですね」
「しかしハンマー…ね。確かにそれがあれば岩を砕くことができるかもしれんな」
北川が岩の表面を爪で削りながら答えた。岩はそれほど丈夫に出来ているようにはみえない。
「だがハンマーなんて今のところどこにもなかったよな、美坂?」
「そうね。でもこれだけの岩を壊せるんだから相当に重量級の物でしょう。だとすれば目立つでしょうからすぐに見つかるわよ」
5人はしばらくその場で情報の交換をした。お互いに今まで見た事を事細かに話し合うことに。
結果作成した地図を見る限り、今のところ調べていない場所は鍵のかかった扉の奥だけだった。
カードキーの備えられた部屋については今のところどうしようもないので保留することに。
そして祐一たちは唯一残った扉へと向かうことになった。
土砂に支配された扉を出て、大広間へ。先ほどのシャンデリアや動く人形、人魂、裂け目。
ありとあらゆる障害が待ち構えているのだから自然と祐一は慎重に歩みを進めてしまう。栞も同様だ。
名雪に至っては警戒を超えて及び腰になってしまっている。
そんな中で北川は堂々と、香里は普段と変わらずに屋敷の中を歩み進んでいた。
そのせいで警戒しながら歩いている3人が臆病に見えてしまう。もっともその事で3人を非難することはできないだろう。
彼らの反応はむしろ人並み、この状況では当然のものなのだろうから。むしろ北川たちの反応のほうが異常なのだろうから。
北川の行動は勇敢な行動というよりも、どちらかといえばふてぶてしい印象だ。可愛げの無い態度といってもいいだろう。
その人並み3人と可愛げのない2人はこれといって問題もなく先ほど北川たちの前に立ちふさがった扉の前へとたどり着いた。
扉の鍵は祐一がピックを使って簡単に開錠に成功した。音をたてて扉が開く。光が漏れてくるので送電は健全なようだ。
扉の奥へと祐一が最初の一歩を踏み出すと、今までとは違う感覚が伝わってきた。
足元からいままでの軋む床とは違う柔らかい感触。その部屋は絨毯張りだったのだ。そしてその絨毯張りの部屋は広い空間を要していた。
備えられた火のともった暖炉、そして中央に備えられた一度に20人は座れそうな長い椅子。
机の構造、美しいテーブルクロス、机上の装飾品から考えてここは食堂のようだった。
「まるで映画に出てきそうな部屋ですね」
栞が感心したように側にいた祐一に言った。彼女の瞳には、机の上に構えている豪華なシャンデリアが映っていた。
もっともその美しいシャンデリアは、近づくものがいれば牙をむく存在なのだが。
「それは違うな。今、俺達がしている事そのものが映画みたいなものなんだ」
「そうだな。だが、できる事なら冷房の聞いた部屋で鑑賞するだけ留めたかったな。出演なんて望んだことはないんだが」
「何事も人生勉強だよ」
「はいはい…」
確かに今の体験は、今後に大きな影響を与えるだろう。あくまで生き残れれば話だが。
部屋の中をくまなく探してみたが有益な物は何一つ見つける事ができなかった。
見つかった物といえばほかの部屋へと通じる扉が1つ、そして上へと通じる階段だけだった。
そこで5人はいつもの様に二手に分かれて探索を開始することに。メンバーも先ほどの分け方と同様だ。
祐一たちは2階へ、北川たちは扉の方へと探索を開始する。いつものように集合場所、時間を決めてからだ。
すんなりと、音をたててドアが開く。北川たちが調べることになった扉には鍵がかかってはいなかった。
そこは台所だった。まあ、食堂の隣に台所があるのは至って自然な部屋の配置ではあるのだが。
違ったのはまたしてもその規模だった。まるでホテルの厨房のようにさまざまなものが所狭しと配置されている。
この屋敷では主婦ではなく、雇われの料理人がこの場に立って主人のために料理をするのだろう。
北川が目の前にあった料理台に指をあてる。埃まみれだ。
「まだ埃が残ってる!」
「…何言ってるのよ?」
「一度言ってみたかったんだ」
香里は北川が言ったことを聞かなかった事にして、台所の探索を開始した。北川もそれに習う。
ありとあらゆる棚を調べ、机の上や下に目を通す。最初に有用な物を見つけ出したのは北川だった。
「美坂、いいものを見つけたぞ」
香里が声のあった方を向くと、鈍い光が彼女を向かえた。彼の手には鈍く光る大きな包丁が握られていた。
「そんな物どうするのよ?」
「ここは物騒だからな。美坂の、まあ護身用にと思ってな。受け取って貰えますか?」
「ご厚意痛み入るわね」
香里は北川から包丁を受け取った。そして一緒にそえられていた皮の鞘に刀身を収め、腰にさしておいた。
「できればそんな物騒なものじゃなくて、指にはめる物とかを受け取って欲しいものだが」
「…それは無理ね。代わりにその先なら了承してあげてもいいわよ」
「何ッ!?…………何故包丁を取り出す」
「北川君は将来刺されそうな性格してるから…」
「今は遠慮しておく…」
香里はそのまま探索を再会し、戸棚の中にしまってあった、防水箱に納められているマッチを拝借した。
一通り探索を終えた彼女が、腕を後ろにやりながら休憩をしていると、鋭い痛みが右腕の痛みが走った。
これといって慌てる事もなく、彼女は右腕に起こった現象の確認を眼でなした。
原因はある物体だった。だが、最初はそれが何かが理解できなかった。
彼女は物体の形状をよく知っていた。彼女の理解を阻んだのは、それが備えた大きさだった。
腕で蠢いていたのは蛆虫。それも通常の10倍はあるだろう巨大な蛆虫だった。
左手でそれを剥がすと、その場所は肉が千切られ、真っ赤に染まっていた。
もしもこんなものに複数集られたら、人間などあっという間に真っ白な物体に変わってしまうだろう。
そのテーブルの上で蠢く、物騒なナマモノに鈍い光を放つ刃が振り下ろされた。
「さっそくあなたに貰った物が役に立ったわ」
「それは嬉しいね。ただ、あれには役に立ちそうにはないけど」
北川は肩をすくめながらある一点を指差した。
気が付いた時には、症状は末期にまで達していた。ネズミほどもある蛆虫は入ってきたドアの所までびっしりと占拠していた。
それを見ても二人ともこれといった反応を示さなかった。
「…困ったな。軟体類は好きじゃないんだが」
「蛆虫って軟体類だったかしら?」
「さあ?まあ気持ち悪いことには違いない」
「そうね…。これがハエまで成長したらと思うとウンザリするわ」
「しかしまあ…どっからこれだけ湧いてできたんだか?」
「避難場所はなさそうね」
「一箇所だけあるぞ。しかも快適な場所だ」
「ヴァルハラ」
「ご明察。まあ、予約は70年後に入れてあるんでね。ヴァルハラの管理官が迷惑すると困るからこうする」
蛆虫の大群になにか液体が振り掛けられた。次にマッチが一本火をつけられ、そして蛆虫の大群の真中に投げ入れられた。
瞬間、薄暗かった台所内が赤い光に包まれ、目映いばかりと化した。
赤い竜が蛆虫の大群の中で暴れまわり、嫌な匂いを上げながら、蛆虫たちが大暴れし、動かなくなっていった。
もしも蛆虫に声帯があるとしたら、この場は断末魔が奏でられるコンサートホールへと変わっていただろう。
それを赤く染まった顔で、微笑みながら眺める北川の手には、調理用の油の缶が握られていた。
ある程度時間が経過したところで、火は勢いを衰えさせていった。
金属やタイルで覆われた台所だったので、蛆虫が死に絶え、灰になると燃えるものがなくなったからだ。
そして蛆虫たちを焼き殺した英雄も役割を終え、退場する時間がやってきた。
香里が台所に備え付けられていた消火器のレバーを握り、英雄はその姿を消していった。
「さて…ここでする事もないし、相沢たちと合流しますか」
祐一たちは普通の家屋よりも倍は高い階段を上りきった。その先はこじんまりとした広間だった。
接客に使えそうな、ソファと机がある以外はこれと言って特徴のない部屋だ。
だが、何があるか分からない。とりあえず3人は何か変わった所がないか確認をする事にした。
ガタッ!
突然栞の後ろで何か物音が立った。そして祐一と名雪は彼女の前方にいる。
彼女は後ろを振り向けなかった。必要以上の緊張が彼女を支配していた。目の前の二人はこの事に気がついていない。
緊張状態が僅かに続いてから、行動を先に起こしたのは背後の物体だった。突如彼女の、地面に着いていた手の甲に何かが触れてきた。
「ひっ!」
栞の方もそこでようやく声が出た。
「どうした!?」
その声で、ようやく背後で無言のやりとりが行われている事に祐一は気が付いた。
栞の腕にふわふわとした感触が広がった。視線を向けると、そこには真っ黒な猫が頬を腕になすりつけていた。
「猫…です」
「猫だって!?」
祐一の目の前に、栞が両手で抱えた猫が突き出された。抵抗しない所を見ると、随分人に慣れているらしい。
「……………」
名雪は栞の腕の中の毛玉を見ても何の反応もしめさなかった。普段なら狂喜乱舞して猫に飛び掛るところだが。
天変地異が起きても名雪が猫を素通りする事はないと思っていたが…実際に天変地異が起きると事実はそうではなかった訳だ。
もっとも、出来れば知りたくない事実であったが。祐一は頭を抱えた。
「どうしましょう…この子」
猫は相変わらずくつろいだ様子で栞の腕の中で喉を鳴らしている。
「どうするも何も…元からここに住んでたんだから放っておいてやれよ」
「…そうですね」
栞が猫を放すと、彼(彼女?)は机の上まで移動すると、その上で一回あくびをし、丸くなって眠り始めた。
どうもこの、生きている人間にとっては過ごしにくい事この上ない屋敷も、猫にとっては快適な場所らしい。
再開された探索によって、部屋にはこれといって何もなく、カードロックがかかった扉、北と西に通行可能な扉が二つある事が判明した。
彼らはそのうちの西側の扉の奥を探索することにした。
その小さな部屋のレイアウトを担当したものは、最初にフレスコ画に目が行くように部屋を整えたのだろう。
彼らが最初に気にしたものは、ドアの正面の壁に飾られたフレスコ画だった。
フレスコは確かにそこにあった。だが、目に見える絵柄はほんの僅かだった。ほとんどが黒く覆われている。
そして、その黒い部分は流動し、無気味な音を立てていた。大量の大きな羽虫は何故かフレスコにだけ集り、他の場所には動こうとしない。
「見ているだけで気分が悪くなりますね」
「ああ…。だけど放っておくわけにはいかない」
「どうしましょう。一匹ずつ潰しますか」
「…………無理だろう。数が多い上にフレスコに傷でも入ったらマズイ」
「蚊取り線香かキンチョウが必要ですね」
当然そんな物を持っているわけがないので、3人はとりあえず諦めて、別の場所を調べることにした。
「しかしまあ…コレを見ているとゴキブリが可愛く見えてくるな」
「ゴキブリはどんな時でも気持ち悪いですよ。人類の敵です」
部屋の面積はおおよそ四畳半ほどの小さな部屋、しかも大きな机が置いてあったので、3人で足を踏み入れたらもう満員だ。
よって探索もスムーズに…とうよりも見るべき場所が殆ど無かったのであっさりと終わった。
探索の結果、祐一は肩から3メートルほどの細めの、それでいてしっかりした造りのロープを下げていた。
「祐一さん。これ、先に入った人たちの書置きですよ」
「発電機?」
「すごいですね。やっぱりお金持ちの家は違いますね」
「そりゃそうだが…どうして発電機を始動させる必要があるんだろ?」
「暗い部屋の照明をつけるためじゃないですか」
「…まあ、そんなところだろうな」
それだったらどうして未だに通電が停まっている区間があるのだろう?時間的にそれを見つけていてもおかしくはないのに。
もっともそれを口にしたところで事態が変わるわけでもないので、祐一は口には出さなかった。
フレスコ部屋を出た祐一たちは、まだ集合まで時間があったので応接広間のもうひとつ、北側の扉を調べることにした。
扉には鍵がかかっていたが、祐一はあっさりとそれをピックで開けてしまう。相変わらずの職人芸だ。
立て付けの悪い扉の奥は闇だった。目を凝らしても奥の様子が何も見えてこない。
ドアの側に手をやり、照明のスイッチらしきものに手をかけたが、どれだけそれを動かそうとも部屋の全貌が見えてくることはなかった。
分かることは、扉の向こう側から注がれる弱弱しい光が照らすリノリウムの床だけだった。
祐一は北川から手渡されていたロウソクに活躍の機会を与えることにした。懐から火種を取り出し火を灯す。
何が起きるか分からないので、彼は他の二人を扉の前に待機させ、とりあえず自分だけが中へと足を踏み出した。
ロウソクをかざしても部屋の全貌は見えてこない。とりあえずまっすぐ足を進めることにした。
リノリウムの床がこつこつと足の動きに合わせて音を立てる。その中に突然金属質の音が混じった。当然それは祐一が立てた音ではない。
ロウソクを四方八方に振り向けるが、視界には床と壁以外のどんな物質も浮かび上がりはしない。
「ここは貴様達のような輩が足を踏み入れてよい場所ではない」
頭の中に直接響くかのような声が感じられた次の瞬間、今までに感じた事の無いほどの大きな衝撃が体全体に走った。
次に風を切る自分の体。視界が目まぐるしく変化…というよりも何が映っているか理解が及ばなかった。
体がようやく止まった…いや止められたのは壁に激突して背中側からの衝撃を受けてからだった。
「い、痛ってーー!」
視界が揺れている。衝撃があった場所に手を伸ばす。激痛が未だに体中に残っているが、それ以外に異常は無い。
五体は何も問題なく動くし、思考にもとりあえず障害は無い。とりあえず安堵の息を吐いた。
「祐一!」
「祐一さん!!」
揺れる視界に二人の女性が入り込んできた。
起き上がろうとした体に一枚の紙切れがはらりと落ちてきた。画鋲か何かで留めてあった物が衝撃で落ちてきたようだ。
なるほど…。その為に発電機を探しているわけか。パズルのピースがぴたりとはまったわけだ。祐一は痛む体で微笑んだ。
こんな時でも、恐怖を感じている時でも、謎を解き明かす行為は快感に繋がるらしい。
「祐一、なんで笑ってるの?」
「別に…真琴たちも同じめに遭ったかと思うと楽しくてね」
久しぶりに口を開いた名雪に、祐一は意外そうにそう答えた。
「それだけ口を動かせるなら大丈夫ですね」
栞も安堵の息を吐いて、祐一に笑いかけた。
「…なにをしてるの?」
そこへ、台所で人騒動終えた北川と香里も顔を出してきた。
ようやく視界が正常に戻り始めた祐一が立ち上がり、事態を説明しようとした。
その時に彼の足がふらついているのを見た栞が、応接用のソファに座って話をする事を提案し、全員がそれを受け入れた。
先程までいた猫はどこかに散歩にでも出かけたようで姿が見えず、人間だけが部屋を占拠して話をする事に。
祐一がソファに腰をかけると、適度な弾力が彼の体を包み込んだ。どうやらかなりの高級品らしい。
もっとも、だからといって今置かれている不愉快な状況が改善されるわけではないのだが。
全員がソファに腰をかけたところで、祐一が説明を始めた。
とりあえず当面の問題はフレスコの撮影が出来ないことだった。それさえわかれば、奥へと、東の庭へと向かえるのだが。
「虫除けスプレーで駆除できるかしら?」
「さあ…まあやってみても損はないと思うが」
香里がごそごそと荷物に手を突っ込み始めた。
「それ…殺虫剤」
香里が荷物から取り出したスプレー缶には、大きな文字で 殺 の字が印刷されていた。
「俺、絶対に香里からはスプレー類を散布してもらわない事にするわ」
スプレーが猛烈な勢いで薬剤を散布する。それを正面から受けた羽虫群はぽろぽろとフレスコ画からはがれていった。
床が黒くて大きな羽虫で埋まったところで香里は殺虫剤の散布をやめた。
そして遮るものがなくなったフレスコ画に栞がカメラの光をあてる。
「小さな獣?化け物ならどこにでもいそうなんだが…」
先ほどまで化け蛆虫と一騒動起こしたばかりの北川は呆れるような口調だ。
彼にとっては、このヒントは森で木を探せと言っているようなものだ。
「あのにゃんこの事じゃないですか」
栞には当然覚えがあった、それも散々恐怖と緊張を味あわせてくれたあの獣の存在を忘れるはずがない。
「…にゃんこって…」
ここで猫をにゃんこと呼ぶのは、幽霊をお化けと呼ぶくらい違和感があるんだが。
妹のセンスにめまいを覚えながらも、香里は何も言わないで部屋をでて、獣がいる机の方へと脚を向けた。
机の下の絨毯によく見ると切れ目が入っていた。それを捲ってみると、一枚の板があり、奥には物を置けるだけの空間が確保されていた。
「あったぞ!」
「それが……凄いなコレは」
それは全長1メートルほどの柄を持っていた。そして先端部分では黒光りした金属の塊がその存在を主張している。
とりあえずハンマーは北川が持つことになった。両端に紐が結んであったので、肩から背負うことができるので持ち運びもそれほど苦ではない。
「これならあの岩をなんとかできそうね」
「よっしゃ。それじゃあさっそく行くか相沢。…相沢?」
北川に疑問の声。祐一は下を見て、その目はどこか別の次元を見ているように感じられた。
「ああ…すまん。さっきのフレスコ部屋でちょっと落し物をしたみたいだ。悪いけどちょっと待っててくれ。取ってくる」
「それじゃあ俺も…」
「いや、すぐに済むから一人でいいよ。ここで待っててくれ」
「そうか…じゃあ俺達は少しここで休ませてもらうよ」
「すまんな」
素早く部屋へと向かって走った。そして何事も無く部屋にたどり着く。
ドアを開けると先ほどと同じように埃とカビ臭、そしてフレスコと羽虫の死体が来客を向かえいれる。違うのは来客の数だけだ。
中に入ると、祐一は何かを探したりはせずに部屋の隅に蹲った。
「もう……嫌だ」
限界だ、こんな場所にいるのは。本当ならあの時、最初の時点で泣き喚いて蹲って全て投げ出したかった。
でも……それは出来ない。俺一人じゃない。名雪、栞、香里、北川。俺の友人達。
俺が投げ出せば、放棄すれば、きっと駄目になってしまう。足を引っ張ったら駄目だ。頑張らないと。
それにここには他にも俺の大切な人が先に来ているんだから。でも…ずっと我慢するのは辛いんだ。嫌なんだ。心が壊れそうだ。
普段はそれを抑えている。でも歩いているとき、声をかけられた時、何かあるたびにそれが噴出してくる。
その度に足が震えるのを堪え、涙が出るのを耐え、わめきだしたくなるのを耐える。
それは辛いんだ。ずっと耐えるのは辛いんだ。俺の心はは強くないんだ。俺は臆病なんだ。
だから少し…一人で本当の心を表に出す。一人部屋でうずくまって。
「う…う…」
涙が出てきた。生きて帰れるのか?こんな非常識な場所から。
先ほど何かに捕まれた足をじっと見る。あの時からずっと違和感が抜けない。自分の足じゃなくなったみたいだ。
もう嫌だ。あんな怖い思いをするのはもう嫌だ。死にたくない。こんな所で死にたくない。嫌だ…嫌だ…。
「ッ!!」
突然の物音。祐一の意識が覚醒する。音はドアノブからだった。
ゆっくりと音をたててドアが開く。緊張と恐怖、そして心の奥底の冷たい部分が事態に備える。
薄い明かりに照らされてドアの前に誰かがうつしだされた。それは祐一の見知った人。
「栞…どうしたんだ?」
緊張を解き、涙を気取られない様に拭いならが祐一は尋ねた。
「あ、遅いから何かあったかと思って」
「ああ…ちょっとややこしい場所にあってな。別に何かあったわけじゃない」
「よかった」
「心配かけてすまんな。それじゃあ行こうか」
祐一はドアに向かう。しかし栞はその場所から動こうとしない。顔色が悪いのが薄明かりの中でもよく分かる。
「どうかしたか?」
「私…怖いんです。とっても怖いんです」
「……………」
自分を見ているようだ。祐一はそう思った。俺と同じように怯えている。違うのはそれを見せられる相手がいるかいないかだ。
「お姉ちゃんや北川さんはあんなに落ち着いていますけど私は駄目です」
俺だってそうだよ。そう叫びたかった。
「気を抜くと足が震えます。気を抜くと泣き出しそうで、怖くて怖くて自分がなくなりそうです」
もはや語るべき言葉が見つからなかった。ただ、自分にそんな事を言われてもこまる。俺は相談をされるほど立派な人間じゃないんだ。
「今だって足が震えだしそうだし、泣きたいです。無残に殺されるかもしれない…いや…もしかしたら死ぬ事すらできないかもしれません」
「………………」
「私達…どうなるんでしょう?」
「全員で生きて帰る。それだけだ」
自分が生き残るためなら他人を義性にしてもいいと思っている自分が何を言う。
「俺はあんな化け物に殺されるつもりは毛頭ない。殺される前に殺してやる」
これは本当に思っていることだった。ただ、あの化け物が殺せるかどうかは甚だ不安ではあるが。
祐一は栞の手を握り、そして北川たちが待っている場所へと足を向け始めた。
これ以上何の実りもないだろう、心が重くなる会話が続くのには耐えられなかった。