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重い扉が音を立てて開く。ドアノブを持った祐一の顔には警戒色が浮かんでいる。 わずかな扉の隙間からは僅かだが光が漏れてきている。それも人口光ではない。 さらに少しずつ扉が奥へと押されていく。ある程度開けられた所で、危険が無いことを確認したのか、一気に押し込まれた。 扉の奥には長い廊下が広がっていた。そして壁につけられた窓からは外の景色が見える。 「ようやく目的地周辺に到着ですな」 北川が嬉しそうに、他の二人にそう言った。 そう、彼らが長い闇の中を探索していたのは外へ出るためだった。正確にいえばそこにある発電機を起動させるためだ。 もちろんそこから屋敷外部へと脱出できるのなら、それにこした事はないのだが、甘い期待を抱いている者はここにはいない。 「これ…どうしましょう?」 全員が手に持っている松明の事だ。一応は日の差す場所へとやって来たのだから、これをどうするのか聞いている。 片手が塞がっているのは何かと都合が悪いことが多いだろうし、火は扱いが容易なものでもない。 「もう消した方がいいかもな」 各自の背中には、一本ずつ松明の在庫がある。ここに来るまでに一本の松明で充分にもったのだから使用中の品を捨てても差し支えはない。 「どうやって消すんですか?」 水でもあればそれでいいんだろうが、ここにはそんな物はない。 「…………しまった。そこまでは考えてなかった」 「……無責任な人ですね。このまま放置したら家事になりますよ」 「そんな可愛げのある屋敷かよ…」 「……で、どうしますか?」 栞は祐一の台詞を丁寧に無視した。 「ま、まあ俺が何とかしよう。二人とも松明を貸してくれ」 どうするのだろう?二人が松明を渡すと彼の動向注目した。 すると北川は、今通ってきた扉をくぐり抜ける。そして一度扉を閉め、すぐにまた戻ってきた。手には何も持っていない。 あの割れ目に投下したのだ。祐一はすぐにそれが理解できた。しかし何も言わなかった。もうアレと関わりたくはなかった。 「嫌な…空模様ですね」 栞もそうだったのかしれない。一番近くの窓を覗きながら、どこか疲れた声で彼女が呟いた。 彼女の言うとおり、もう窓の外から見える景色は厚い雲に包まれ始めていた。 彼らがここに入ってきたときにはまだ日が真南に輝いているのが確認できたが、今では太陽がどこにあるかも確認できない。 それどころか、今すぐにでも雷雨が降り注いで不思議ではない。 祐一も窓から外を覗き込んだ。全部ではないが、庭のある程度の風景が確認できる。 地面は荒地が広がり、どうにも平時であろうが楽しめそうな場所ではない。その中央辺りにコンクリート製の小さな建物が確認できた。 そしてその建物からは、数本の送電線らしきワイヤーがこちらの屋敷へと続いていた。あそこに発電機があるのはほぼ間違いないだろう。 他の部分にも目をやる。荒地の切れ目には全て大きな木が生えていた。そして永久に続いていそうな原生林。 ここから森へと逃げ出したとしても…野垂れ死にするか、狼にでも食われるか。どちらにしてもろくな結果にはならないだろう。 だいたい、ここに来た理由は舞たちを回収するためだ。自分だけに逃げるわけには行かない。 一瞬、祐一の顔に笑みが浮かんだ。 狼に襲われる…か。狼なんてもう日本にはいない動物がさも当然に自分の思考に登場したのがおかしかったのだ。 まあ、ここで狼が襲い掛かってきても、困りはするが驚きはしないだろう。もう一生分の非常識を体験しているのだから。 「不愉快そうな庭だな」 「まったくだ。一雨来る前にちゃっちゃと仕事を済ませて帰ろう」 北川の言う事は尤もだ。とりあえず、外に面した扉に足を進めた。 ドアノブに手をかけるとあっさりと扉が開く。扉が開いた先はこじんまりとした(それでも10畳はあるだろう)居間だった。 部屋の中央には大きな応接机。そしてそれを囲むように豪華な革張りのソファーが備え付けられていた。 何よりも3人の目を引いたのは、部屋の一番奥に飾ってあった西洋風の甲冑だった。 「本物を見るのは初めてだな…」 甲冑の胸部装甲を撫でながら祐一が感動したように呟いた。 実用品なのであろう、しっかりとした分厚い金属で大部分が構成されているようだ。これに武器でもついていれば、戦場に行けるだろう。 「ついでに着てみるか?色々と役に立つかもしれないぞ」 まるで理想の恋人を前にしたような祐一に、北川はからかう様に言い放った。 「こんな化け物屋敷に置いてある甲冑、お前なら着る気が起きるか?」 「たとえ美坂に進められたとしても断るだろうな」 「懸命な判断で」 こんな場所。つまり死者が襲い掛かってきたり、無機物が言葉を喋るような場所だ。 この甲冑が動いて襲い掛かってこない方が不自然だ。祐一が言いたいことはそれだった。 「それよりもさっさと庭へ出よう」 だが、残念な事に外へと通じる扉は部屋のどこにも確認できなかった。 「無駄だと思いますが…この窓を壊してみますか?」 鍵も何も付いていない、一枚ガラスをはめ込んだだけの窓を指で叩きながら栞が提案した。 先程、扉を破壊しようとして、無駄足に終わったことはまだ記憶に新しい。 「頑張れよ、北川君」 「まあ、できる範囲で頑張ってみますか」 北川はハンマーをソファーの上に放り投げ、机の上に置いてあったクリスタル製の灰皿を手にしている。 さすがに小さい目標(しかも目線の高さにある)に巨大なハンマーをぶつけるのは難しいと感じたのだろう。 「あ、せーのッ!!」 大きな掛け声と共にクリスタルの灰皿が高速度で窓ガラスに叩きつけられた。 鈍い音が響き渡る。灰皿が豪華な絨毯に落下した。窓ガラスは傷一つ付いていない。逆に灰皿にヒビが入るしまつだ。 「やっぱり無理だったか…」 分かりきっていたとはいえ、やはり残念だったのか3人はそろってため息をついた。 「他の出口を探しますか」 「そうですね…」 突然背後で閃光が閃き轟音が響き渡った。とうとう雷雲悲鳴をあげ始めたようだ。 轟音の名残が無くなった時、祐一は自分の右腕に何かがしがみついているのに気が付いた。 「す、すいません!」 栞だった(もしも北川だったとしたら大問題だったろう)。自分がした事に気が付いたのだろう。彼女は居心地悪そうに祐一から腕を離した。 「………………ああ。気にしていない」 どうして女の体って奴はどうしてこう、男と違って柔らかくて暖かいんだろう? 以前にも同じ事があった。あの時、あの時、あの時は…俺はこんな場所には立っていなかった。あの時は 舞に抱きつかれた時、自分が何をしたかに気が付いた時に見せてくれた少し恥ずかしそうな目。 でも、今俺に抱きついてきた人は彼女ではない。そして目の前の女性が俺を見る眼は冷たい。俺がそのようにしてしまった。 彼女は俺のことを誰よりも理解してくれて、誰よりも俺を好きでいてくれた。そして自分もそれに答えていた。 祐一は今自分が探している人が恋しくなり、目の端に僅かな涙が浮かんだ。そしてすぐに拭いさられた。 その動作は、本当にさりげない動作だったので誰にも気づかれる事はなかった。 部屋を出た3人は庭へ出られる出口を探すことを試みた。 だが目的の物はなかった。あったのは以前に破壊しようとして失敗した扉――これは簡単な錠前がついていただけだった――そして3つの内側へと続く扉だけだった。 仕方が無いので、何か手がかりを求めて扉の奥を調べることにした。尤もその扉にしても一つは電子錠がついていたので手がでないが。 最初に彼らが足を運んだのは、一番手近にあった扉だった。掛かっていた鍵は祐一が簡単に解除した。 慎重に開けた扉からは意外にも人工的な光が漏れてきていた。 「ここには電気が通じているみたいですね」 「別系統で電力を確保しているかもしれないな」 北川は手にしていたまだ火を灯していない松明を背中の荷物へと戻した。 部屋は先程の応接室と違って殺風景だった。四方上下全てがコンクリートが剥き出しになっている。 そのコンクリート剥き出しの壁には、美しい美を誇るフレスコ画がかけられていた。 「撮影よろしく」 「了解です」 雷が鳴り稲妻が 光っている所がある 「雷なら現在進行形で鳴ってますよね」 「…家族自慢よりは役に立ちそうなメッセージではあるよな」 「最後の1枚に期待ですね」 フレスコの撮影を終えた彼らは、部屋の奥にさらに小さな通路がある事に気が付いた。 ちょうど部屋の中央部に来た時だった。祐一は踏み出した右足がしっかりとしたコンクリートの感触ではなく、沈む感覚を味わった。 彼の足元から、カチリと小さな金属音がした。それが悪夢の始まりだった。 床から炎が吹き上がった。最初は部屋の外周部しか燃えていなかったが、あっというまにそれは中央に迫ってきた。 そして祐一たちがいる部屋の中心部、半径一メートルほどを残して部屋は全て炎に飲み込まれた。 「勘弁………してくれよ…」 祐一が膝から地面にへたりこんだ。顔は絶望一色に塗りつぶされている。 駆け抜ければ充分に生きている間に炎の外側へと辿り着けるだろう。ただし、その間に火達磨になる事は確実だろう。 せめて長袖の服を着て水でも被れば火傷程度で済んだかもしれないが、ここには水はないし服も軽装だ。 そしてこんな場所で重度の火傷を負うことは死を意味する。 「電力を別系統で確保していた理由はこれかな………こいつは一大事だ」 炎で真っ赤にそまった顔を、困ったように手を添えながら北川呟いた。 「一大事どころじゃありませんよ!!どうするつもりですか!?」 北川はそれには答えずに荷物から紙、胸ポケットからペンを取り出し、何かをメモし始めた。 30秒ほどすると書き上げたらしくペンを胸に戻し、メモを折りたたんで栞の手に握らせた。 「これを美坂に渡してくれ。とっても大切な物だから無くしたり汚したりしないように」 「ど、ど、どうやって!!この炎の中を突っ切れと言う気ですか!?絶対に無理ですよ!!死んじゃいますよ!」 「それは何とかしてあげよう。いいか美坂妹。これかれ全力疾走で美坂の所へ走って、その後は美坂の指示にしたがう。いいですか?」 「そんな事言う人嫌いです!!無理です!絶対に無理です」 「女性に嫌われるのは本意じゃないが、他に手が無い。美坂妹の意見は無視させてもらいます。潔く諦めて俺の言う事を聞きなさい」 北川が言うには、この中で一番体重の軽い(あえて何キロとは追求しなかった)栞が、北川と祐一を補助に使って向こう岸に飛び越える。 具体的には、栞ができる範囲で助走をつけて北川に向かって飛び掛る。その栞を北川が全力を持って縦と横のベクトルを加える。そして祐一が北川の受けた力を支える。 「相沢、絶対に倒れるなよ。もしも失敗したら俺とお前は確実、美坂妹も飛び方によっては黒焦げになるぞ。もちろん火達磨になって死にたいと思うほどの苦痛もセットで漏れなくついてきます」 「いいから……早くしろ」 「アイアイサー」 北川は炎の二歩手前に身を置いた。そしてその背後、炎の一歩手前に祐一を配置した。 栞のスタート地点はその反対側だ。その距離僅か3メートルたらず。助走に使うにはあまりにも短い。 もしも北川がその助走の短さを補いきれなければ、栞は炎の中で派手なダンスを踊り狂う事になるのは間違いない。 「いつでもいいぞ」 北川は手を組んで、臨戦体制をとっている。しかし栞は動かない。顔に強すぎる緊張が浮かんでいる事が容易に読み取れる。 「このままじっとしてても楽しくないぞ。ハリーハリーハリー!!」 「ままよ……」 栞が疾走を開始する。短い距離を走った後に、小さな体を宙に浮かび上がらせる。 彼女の足が組んだ掌を踏みつけた。北川は体のバネをフル活動させて小さな栞の体を大きく宙へと跳ね上げさせた。 それにともなう反作用を大きく受けた祐一は体を仰け反らしたが、辛うじて炎の中に身を投じるところまでは行かせなかった。 祐一が安堵で一息ついたときには、栞の体を大きく炎の柱を飛び越えて安全圏まで身を移動させていた。 ただ、着地には失敗したらしく、掌と顔に僅かな擦り傷ができていた。 「それじゃ頼んだぞ〜。扉は開けっ放しにしておいてくれ」 炎の熱で歪んでよくは見えないが、北川は栞に向けて手を振っているようだ。 「ぜ、絶対にお姉ちゃんたちを連れて戻ってきますから!!」 彼女は全力で部屋を駆け出ていった。 「俺にできる事はここまで」 北川の顔は、一仕事終えた漢の顔だった。 部屋を出た栞は、全力で暗闇の中へと飛び込んでいった。 北川が備え付けておいたロウソクの明かりだけを友として、彼女は全力で走りつづけた。 あんな炎の熱の中で人間がどれだけ生きていられるのだろう?私なんかサウナに一分も入ったらふらふらになってしまう。 例えこのメモにどれだけの事が書かれていても、お姉ちゃんにコレを届けたとしても、あそこに残った二人を助け出せるかわからない。 でも、自分は、自分だけは助けてもらったのだから、絶対に諦めるような事をしてはいけない。 あの二人が死ぬところなんて絶対に見たくない。 祐一さんは、あんなに冷たい事私にを言った。正直言ってあれには傷ついた。涙が出るかと思った。 でも祐一さんは間違った事は言ってない。馬鹿で何もできないのに文句ばかり言っている私と違ってあの人は全員が助かる事を考えているに違いない。 それにここに来てから何度も私を助けてくれている。自分はあんなに傷ついているのに。頭に巻いた包帯が赤く滲んでいた事が頭によぎる。 何もかも上手くやろうとして、頑張ろうとしすぎて張り詰めた顔。今から思い返すと、私に酷い言葉を言った時、それは一番酷かった。 きっとここから生きて出られたらいつものように優しく私に接してくれる。それにもしかしたら……。 お姉ちゃんと北川さんが一緒にいる所もずっと見ていたい。お姉ちゃんがあんなに遠慮なく言葉を言い交わせる相手は他にいない。 お姉ちゃんが北川さんを好きなのかどうかは分からないけれど、得がたい者だと思っている事は私にでもわかる。 薄暗闇の中の少女は決して足を緩めずに走りつづける。 「……あの紙……いったい何を書いたんだよ?」 「聞きたいか?」 二人は地面に腰を下ろしていた。北川の右手にはタバコが握られている。不精な事にライターを使わずに舞い上がる炎で火を灯している。 「どうでもいいよ」 あれから祐一は俯きっ放しだ。もう死ぬ事が決定しているかのような雰囲気だ。 「せっかくだから聞けよ。漢、北川潤。最愛の女性の妹を守るために自ら炎に焼かれる事を選ぶ もし俺が死んだら墓にはそう書いてくれ と書いた」 「死ぬ気かよ…」 「もちろんそれはおまけだ。火に巻かれて今にも死にそうです。台所に消火器がいくつか備え付けられてたから、それ全部持って助けに来て下さい。お願いだから見捨てないで〜。そう書いた」 祐一と北川の顔には大粒の雫が無数に浮かび上がっている。 扉が開いているから酸欠になる可能性は低いが、猛烈な熱は加速をつけて彼らの体力を奪いつづけている。 「どうして…どうしてそんなに落ち着いてるんだ?俺達……ここで死ぬかもしれないぞ」 「そうだな。このまま干物なって死ぬかもしれないな」 気が付いたときには、祐一は思い切り北川の襟首を掴み締め上げていた。 「どうして…どうして!!お前はいつも平気な顔をしていられるんだ!?」 「お、おい。苦しいんだが」 「俺は死にたくないんだ!死にたくないんだ!!こんな所で死ぬなんて絶対に嫌だ!」 「落ち着けって。絶対に美坂妹が必要なことをしてくれる。助かるって。大丈夫だよ」 口にくわえていたタバコが炎の中に投げ捨てられた。おかげで祐一が火傷をする心配はなくなった。 「そんな保障がどこにある!このまま俺たちが、俺がここで死なないですむ保障がどこにある。死にたくない!俺は死にたくないんだ!大切な人がいるんだ。やっと幸せになれたんだ。それなのにこんな所でしにたくない。もう一度あいつに、舞に会いたい。」 「はぁー…。彼女持ちは死ぬときまでもそういう事を考えるものなんだな…」 「当たり前だ!!俺は!俺は!まだあいつとやりたい事がいくらでもあるんだ。ふとした事からあいつ俺の部屋に泊めて。それでも俺は根性なしで臆病者だから手なんて出せなくてそのまま朝になって。朝になってから秋子さんにでも、どこぞのRPGの主人公のように昨夜はお楽しみでしたねなんて言われてやる」 「…やっぱりお前は面白い奴だな、相沢」 「どうして北川、貴様はそんなに落ち着いていられるんだ!!」 「それじゃあ俺も相沢のように取り乱せばいいのか?助けて美坂って叫んだりしたら満足してくれる?他には…そうだ、相沢と人生で楽しかった事について語りあうってのもおつだな。もしくは最後においしい思いをしてやるって叫んでお前の尻の穴の貞操をいただいたしたらすればもっとOK?1回…いや死ぬまでに4回くらいは楽しめると思うぞ。もちろん俺は男は専門…いや、門前払いなんだが。まあそれだったら美坂妹を逃がさないで押し倒して強姦すればいいか。ちっちゃい女はあまり好みじゃなんだけどな。もちろん相沢も混じって3Pだ。さすがの俺も3Pの経験はナッシング。ドキドキするな。エクスタシーって感じだ」 「ふざけるな!!そんな事したら殺してやる!!」 「…あのな相沢。俺だって怖くないことはないんだぞ。でもここで慌てたりしても仕方がないだろ」 「落ち着いていられるか!」 「まあ、コレを貸してあげよう」 「?」 祐一の右手に握らされたもの、それは北川愛用金属製のライターだった。 わけがわからない。彼が苦情を言おうとしたとき、北川の口には新しいタバコがくわえられていた。 「火」 「………」 「火だよ。火。気の利かない男だ。相沢のせいで俺はさっき貴重なタバコを無駄にしたんだぞ。火をつけてやるくらいの奉仕の精神を持つのは当然だろ」 北川の言うとおり、彼が持っているタバコの箱には片手の指の数ほども紙に巻かれた物体は入っていない。 「…………」 「別に奉仕の精神って言っても、裸エプロンで朝起こせとか、俺のモノをどうにかしろなんて言わないから安心しろ」 何を言っても無駄な事を理解したのか、しぶしぶとライターに火が灯された。 「下手糞なつけ方だ。普通は火が消えないように手で風除けを作るものだぞ」 「ふ……」 北川の襟首を強く締め上げようとしていた祐一の手がだらりと垂れた。 「白だったな……」 「?」 「栞の下着の色」 「見たのか」 「さっき跳んだと時にな。ばっちりと見えた」 「とりあえずオメデトウと言っておくべきだろうな。何しろ料金を請求されなかった」 一瞬、自分だったら料金を請求される事はないかもしれないと考えた祐一であった。 「ああ…儲かった。と言うべきなんだろうか?」 「そんなところだな」 「女を知った後だと、チラリズムに魅力を感じるのはどうしてだろうな?」 「一つの謎を解き明かしたら、別の謎に魅力を感じ求めたくなる。つまり、男はどこまで行っても馬鹿でスケベな求道家ってことかな」 「炎にまかれて今にも死にそうなのに、なんて会話をしているだろうな…俺たち」 「今も言っただろう。男はどこまで言っても馬鹿なんだよ」 「…違いないらしいな」 祐一は炎にまかれてから、初めて顔に笑みを浮かべた。それでも、冷めた笑いである事は間違いなかったが。 「…どうして俺達がこんな目にあってるんだろうな。運命ってやつか?」 「それは違うな。不幸が押し寄せてくるのは運命のせいなんかじゃないぞ」 「だったら何故だと北川は考える?」 「運命を端から否定はしないぞ。俺と美坂が巡り合ったのは間違いなく運命だ」 「向こうはどう思ってるんだか…」 「それでだな、人が不幸な目にあう理由は簡単だ。一つは本人の選択ミス。一つは本人の能力不足。そして最後に、すべて人間の悪意の結果の成せる技だ」 少女は走り続けていた。だが元々荒事に向いている体ではない。だんだんと息が切れ、足回りが鈍り始めてきた。 そしてついに足を止めて、膝に手をつき、肩で大きく息をし始めた。 「急が…なきゃ」 息を整えて大きく足を動かそうとした。彼女の体は宙をかけようとした。 しかし突如、栞の視界が急激に揺れ動いた。高速で迫ってくる床に対して慌てて両手をついて視界の横転を防いだ。 「痛いっ!」 だが、防げたの横転だけだった。彼女の左足に鋭い痛みが走る。見ると木の床に開いた穴に足がはまり込んでいる。 床の切れ目の鋭く尖った部分が足に突き刺さっている。強く踏み込んだ足の力に床が降参した結果だった。 「あぅ。痛い。痛いー」 あまりの痛みに涙を目に滲ませながら自分の状態を視認する。 自分の足がボロボロになってしまったのを見て、溜まっていた涙が一滴地面を濡らした。 ほんの少し足を動かしただけで鋭い痛みが襲ってくる。それでもこのまま足止めを食うわけにいかない。 栞は両手を添え、左足に力を込めた。 「痛っ!」 激痛に耐え、ようやくの事で左足を束縛から開放することに成功した。あまりの痛さに鼓動が激しくなり、息が荒くなった。 栓が抜けば場所から、真っ赤な液体があふれ出てくる。それが真っ白だった靴下をどんどん染め上げていく。 血を止めないと。包帯は祐一さんが怪我をした時に渡してしまった。ハンカチもだ。 無いよりはマシだろうと思い、栞はポケットに手を突っ込んでティッシュを探すが見つからない。 「お姉ちゃんの言うとうり、出かける前に持ち物の確認をしておけばよかった…」 出血を放りっぱなしにしたまま、傷ついた足を引きずりながら、栞は暗闇の中を進みつづけた。 「香里がタバコ吸ってるなんて知らなかった…」 待機班の女二人は、暗闇の入り口の近くに座り込んでいた。何もする事がないのか、香里は新しいタバコに火を灯した。 傍に置いてある携帯灰皿にはもう数本の吸殻が収まっていた。 「学生時代は一応、品行良性で通すつもりなのよ。他人に知られるようなヘマはしないわ」 「香里は私と違って要領いいからね」 名雪は楽しそうに微笑んだ。あれから名雪の精神状況は落ち着きを取り戻しているように見える。 「すまないわね。名雪は傍でタバコ吸われてて不愉快でしょ。でも非常事態と思って許容してもらえるかしら」 「別に構わないよ。私はそれ以上に皆に迷惑かけてるから」 「まったくだわ。迷惑かけっぱなしよ」 ぼんやりと宙を見つめながら香里は肺腑に溜まっていた煙を放出した。その様子は普段からは絶対に想像つかないほど退廃的だ。 優等生としてしか知らない学校の関係者が見たら卒倒していた事だろう。 「うー…」 「別にいいわよ。なんて言ったって……非常事態ですから」 今度は香里が名雪に向かって微笑んだ。 「あれ…でも自分でタバコを持ってるなら、どうしてここに来た時に北川君から貰ってたの?」 「あいつは私の事が好きだって言う割に、プレゼントの一つもよこさないのよ。だから貰える時に貰っておこうと思ったのよ」 「そうなんだ。でも…香里は物で人の気を引こうとする人をどう思う?」 答えは一瞬で返ってきた。 「顔を洗って出直してきなさい」 「だったら北川君は香里の事が本当に好きなんだよ」 「その頭を少しでも想像力を働かせることに使いなさい。」 「あの…もうどう思うかはいいから」 「そう。しかし彼が考えている事は何がどうだか…それに」 答えは最後まで噤まれることはなかった。香里の視線が暗闇の中に注がれる。 徐々に誰が向かってきているか、自分の妹がこちらに向かってきていることがわかってきた。 香里は咥えていたタバコを放り投げ、急いで妹に駆け寄っていった。目の前を歩いている妹は酷く頼りない足取りだった。 栞は香里が手に届く場所まできた所で、彼女に向かって倒れこんだ。今まで気力で歩いていたのは間違いない。 香里は自分に倒れこんできた妹が、酷く呼吸を乱し、汗を浮かべているのを見て、事の逼迫している事を感じ取っていた。 「どうしたのよ!それに男どもは!?」 「栞ちゃん!!」 名雪も心配そうに栞の傍に駆け寄った。 「こ、これを…読んでください」 行き絶え絶えの栞は、ポケットから北川から託された手紙を手渡した。転んだりしたせいでもうよれよれになっている。 「香里!栞ちゃん足に怪我してるよ!」 「ならよろしく」 「え、え!?」 驚いた顔をした名雪に、香里は栞の体を渡した。そして事を知らせてくれるだろう手紙に急いで目を通した。 「無用心なんだから。なんたら体たらく」 大きく舌打ちをして、香里は紙をポケットの中にしまった。栞はその動作を目で追ったとき、床に投げ捨てられたタバコが目に入った。 タバコは投げ捨てたのに、手紙はポケットにしまったのが、彼女には妙に心に残る行為だった。 「祐一さんと、北川さんは、私だけを炎から助けてくれたんです。早く…助けにいかないと」 栞は呼吸も整わないうちに、必死で自分が何故ここに一人で駆け寄ってきた理由を説明した。 「そう慌てないで。その様子ならあと一時間くらい放っておいても死にゃしないわよ」 香里はそう言って、懐から新しいタバコを取り出し火をつけた。その間に、名雪は栞の怪我の応急手当を完了していた。 さすがに怪我とは無縁でいられない運動部だけあって、応急処置としては十分な処置が施されている。香里はそれを見て満足した。 「ご苦労様」 「傷は見た目ほどは酷くないと思うよ。少ししたら歩けると思う」 香里は、足に包帯を巻いた妹の前に立ち、屈んで背を向けた。 「ほら」 「えーっと、これは…おぶされって事ですよね?」 自分が知る限り、姉がこんな風にしてくれたのは、もう記憶に無いくらい昔の時だけな栞だった。 「そうよ。とりあえずあの馬鹿共を助けるために台所で消火器を取りに行く。あなたの足は歩けない事も無いでしょうけど、無理しないほうがいいのは確かよ」 「でも…私はここで待ってますから、急いで消火器を取ってきたほうが…」 「さっきも言った通り、一秒二秒を争う事態ではないの。ここに栞を置いて行って、何か問題が起きるほうが大きくマイナスになるのよ」 お荷物になられては困る。間接的にとはいえ、そう言われたら断れるわけが無い。栞は遠慮しながら姉の背に抱きついた。 「栞…」 「はい?」 「やっぱり胸ないわね…」 「そ、そんな哀れんだ目をしないでください!!」 「見えてないでしょうに」 「声でわかります!!」 「ここにいる3人の中で…間違いなくあなたが一番支持率が低いわね」 「え?私も数に入ってるの?」 「支持率ってなんですか!!」 「あなたを支持してくれるのは一部のマニアック層だけよ」 「私は一体どういう人間ですか!?そんなことよりも早く消火器を取りに行ってください!」 「もう歩いてるわよ」 ここから台所まで行き、消火器を抱えて男たちが炎にまかれている部屋まで行くのにはそれなりの時間がかかるだろう。 それが分かっているから、こんな会話をしている間にもできるだけ早く足を動かしている香里だった。 「お姉ちゃんは北川さんのどこがいいんですか?」 歩き始めてからしばらく、姉の背中で揺られていた栞が声をだした。 「別に気に入ってるわけじゃないわよ」 「でも、よく一緒にどこか出かけたりしてたじゃないですか。気に入ってでもいないと普通はそんなに会ったりしないですよ」 「私も気になるな。香里は北川君のどこがいいの?」 「やれやれ…この非常時に」 目を輝かす二人に、冷水を浴びせる発言をしたのはこの直後だった。 「そうね…あえて言うなら…私の知ってる男の中で一番SEXが上手いからかしら」 空気が凍りついた。後に栞は祐一にそう語ることになる(北川には話さなかった)。 「そ、そ、そ、そんな関係だったんですか!!」 「びっくりしたよ」 発音が語るとおりに驚愕の表情を浮かべる栞。発言とは裏腹にちっとも(少なくとも表面的には)驚いていない名雪。 そして何事も無かったかのような香里。信号機のように違った3つがその場に存在していた。 「一応言っておくけど……今のは冗談よ」 「あ、冗談だったんだ」 これまたちっとも気にしていない声で返事をする名雪であった。一方の栞はといえば、背中越しに振動を感じている香里であった。 「じょ、冗談でも言っていい事と悪いことがあります!!」 「ふぅ…。この程度の冗談で……これだから子供は」 「私はもう子供じゃありません!!」 「認めなさい…。今そんな発言をしても、一部の変態を喜ばせるだけよ」 「うー」 いつも姉は自分よりも一枚、いや、二枚以上は上手だ。今も自分は何も言えないでいる。 それともう一つ。一部の変態というのは、いったいどういった人種。それがどういった人種で気になったが、どうしても口を開く気にならない。(自分がどういった目で見られて思うと、なんだかとっても嫌な気がするのだ) 姉の背中で揺られながら、沈黙を続けている栞の頭の中はそいうった感じであった。 過剰に辺りを警戒しながら歩く女性と背中に怪我人を貼り付けた女性は台所への途上にあった。 大きな荷物を持った者がいるのだから、当然その進行速度は速くはない(それでも荷物の重さを考えれば及第点を遥かに上回る速度ではある)。 先ほどの会話が途切れたのが、分単位で以前の事だった。今は沈黙が続き、足音と、屋敷の構成物が発する音だけが彼女たちの耳を響かす。 「さっき…お姉ちゃんがどうして北川さんと一緒にいるのか聞きましたよね」 もうすぐ目的地に着きそうになった時に、栞が口を開いた。 「ええ。それがどうかしたの?」 「それとは直接関係ないんですけど…あの…」 どうにも栞の言葉の歯切れはよくない。 「どうしたの栞ちゃん?具合悪いの?」 心配したのか名雪も声を掛ける。彼女は栞の事を好いていたで、その心配の度合いは大きい(精神的に安定していればだが)。 「だから…祐一さんと…舞さん…あの二人…付き合ってますけど」 「そうね」 「家に連れて来た事があったよ。祐一は、付き合ってるってお母さんに紹介してたよ」 「それで…あの二人は…」 一息、小さく肺に空気を吸い込んで、溜まっていたものを一気に吐き出すように結論を紡いだ。 「お姉ちゃんが冗談(と自己申告した)ような事…したんでしょうか?」 それを聞いた香里はため息を吐いた。もし両手が塞がっていなかったら、額に手を当てるなり、肩をすくめるなりしていただろう。 「あのね栞。そういう事はもっとハッキリと言いなさい」 「はっきりと言われても…」 そんな事をハッキリと言えるわけが無い。言っていいような事ではない。それでも聞かずにいられないでいる自分が嫌でたまらない栞であった。 「つまり…こう言えばいいのよ。お姉さま!祐一さんと舞さんは付き合っているみたいですけど、もう肉体関係を持っているのでしょうか!?」 音量、表現、音質、発声、これ以上にないというほどにハッキリとした聞き方だった。点数をつけるなら95点。 「香里…お姉さまって呼ばれたいの?」 「名雪さん!!ツッコム場所、絶対に間違ってます!」 「昔、女王って呼ばれた事はあるわね」 「わ、凄いね」 もしここに男二人がいたなら、「そりゃあ的確な呼称だな」「美坂は俺の女王だ」などと返事が返ってきていただろう。 「それ返事になってませんよ!何で会話が成り立つんですか!?それに女王って呼んだ事なんてないです!!」 さっきまでどもっていたのも忘れて、栞のでっかいツッコミが香里に入る。 自分は姉の事を女王だなんて(例え思った事があるにしても)言った事はない。言う気もない。 「閑話休題。あの二人の関係は栞が思っているとおりで間違いないと思うわよ」 「そう…ですよね」 「一応言っておくけど、閑話休題っていうのは『それはさておき』って意味よ」 閑話休題 話を本筋に戻すとき、または本題に入るときに用いる言葉。接続詞的に用いる。むだな話はさておいて。それはさておき。さて。 大辞林より引用 「それぐらい知ってます!」 香里はそれ以上何も言わなかった。何故そんな事を聞くのかと言った言葉が出てこないのである。 そんな事をしている間にも足は動きつづけており、ようやく目的地である台所に辿り着いたのであった。 「もう大丈夫です」 今までずっと姉の背中の上にいた栞が、床の上に足をついた。 姉がわずかに心配しているような(少なくとも栞はそう思っていた)表情で見守る中、一歩一歩足を踏み出していく。 歩くたびに小さな痛みが断続的に襲ってきたが、歩けなくほど酷いものではなかった。 栞は安心したかのように一息ついて、台所の奥へと進んでいった。 「よかったね。怪我はたいした事無かったみたい」 「そうね。足手まといになられたら困るものね」 「素直じゃないね…」 目的の消火器は確かにそこに置いてあった。しかし見える場所には2本ほどしか置いていない。 「消火器ってこれだよね?」 名雪が消火器を両手に抱え込んだ。しっかりとした重さが両腕にかかる。 「それは使わない方がいいわよ」 「どうして。ちゃんと色々な火事にたいして使えるようになってるよ」 確かに消火器のラベルには、普通、油、電気の火災に対して使用できると表示されている。 今回の火災がどのような種類に分類されるかは不明だが、効果があるのは確実だろう。 「よく見なさい。容器が酷く腐食してるわ」 「でも、ちゃんと中身は入ってるみたいだけど」 「例え穴が開いていなくてもダメ。それだけ痛みが激しいと、レバーを引いた途端穴が開いて…消火器が飛び上がるわよ。アゴを砕かれるわね」 消火器がある家は、きちんと定期的に検査をしましょう。検査は買ったお店でしてもらえます。面倒かもしれませんがイザという時に困らないように日ごろからの備えを。 「でも…これがないと祐一たちを助けらないよ!」 名雪は未練があるといった感じで、消火器を持ちつづけている。確かにコレがないと救助活動は成り立たない。 「あの北川君がこんな物を当てにするわけがないわ。多分どこか他の場所に使用可能な消火器があるはずよ」 言うや早く、香里は片っ端から台所を物色し始めた。一度調べた場所なので勝手は分かっているようだ。以前に北川が調べたであろう場所を手際よく調べている。 香里は同じく調べ始めようとした名雪と栞に向かって簡単な指示を出した。二人は指示に従って探索を始める。 「お姉ちゃん、やっぱり北川さんを信頼してるんですね」 「信頼してるわけじゃないのよ栞。私はただ知っているだけ」 栞には、それが同じ意味にしか解釈できない。もっとも、姉と論戦になって勝てるわけが無いので、目下の作業に没頭する事にした。 「あったよ!」 叫んだのは名雪だった。彼女は台所の奥の物置のような場所の前に立っている。 その物置には、いくつかの赤い消火器が並べてあった。保存状態もよかったらしく、容器にこれといった損傷は見られない。 「これならどうかな?」 「問題なさそうね」 香里は嬉しそうに消火器の状態を確認して床に置いた。 「これで祐一さんたちを助けられますね」 「ええ、間抜けな男たちの尻拭いができるわ」 やっぱり素直じゃない。消火器を前に嬉しそうにしている姉の姿は栞にとって心地よい光景だった。 消火器は名雪と香里が2本ずつ持っていく事になった。栞は手ぶらのままである。 「私は持たなくていいんですか」 「いいのよ。誰か手が空いている人がいないと、暗闇の中で何かと不便でしょう」 そうは言っても自分だけ何もしないのはあまり気分がよくないのは確かだった。しかし反論はできなかった。 二人は早速最終目的地である男たちが救援を待っている部屋へと向かい始めていたのだから。 台所のドアをくぐった時だった。先頭に立っていた名雪の視界に黒い物体が向かってきた。彼女はとっさに両手を動かした。 「な、なにっ!?」 顔をかばってた両腕に小さな痛みが走る。その時にようやく自分に何が起こっているかが理解できた。 両腕の隙間から見える黒い影の正体。それは大きな蝙蝠だった。それが自分に向かって牙を剥いているのだ。 「ううー」 一回一回の傷は小さいが、だからいって無視できるものでもない。しかもそれが何度も執拗に繰り返されるのだ。 名雪は焦っていた。以前テレビで見た正体不明の人を襲う吸血生物の事が頭をよぎる。もしもこの蝙蝠がそうだったら。 そう思うと、彼女は頭を庇う以外の行動が出来なくなっていた。再び恐怖が心を構成する主成分になりつつあった。 その時だった。恐慌に陥る直前の名雪に救いの手が差し伸べられた。 「名雪、こっちに来なさい」 後から出てきた香里だった。名雪は残った行動力を総動員して、声のほうへと向かった。 そして名雪は香里の後方へとようやく辿り着いた。それと同時に後ろの方で何か小さな物音がした。 羽音が遠ざかっていく。彼女は恐る恐ると後ろを振り向いた。件の蝙蝠は遥か彼方へと脱兎の如く飛びつづけていた。 「他愛もない」 そして香里は何事も無かったかのような様子だ。何が起こったのかさっぱり理解できない。 「い、いったい何をしたの」 「何って…ライターの火であぶってあげただけよ」 確かに香里の手にはライターが握られている。しかし。 「ライターの火って…どうやればそんな事ができるの」 手にあるのはごく普通の使い捨てライターだ。押し付けでもしない限り武器としては役に立ちそうに無い。 「凄かったですよ。火がまるでハリウッド映画みたいに噴出したんですよ」 不思議がっている名雪に、唯一の目撃者で栞が、自分の見た事を説明した。とは言っても、納得できる説明ではなかったが。 「ちょっと改造すれば意外に役に立つものよ。危ないから名雪は真似しないほうがいいけど」 まだ不思議そうにしている名雪に、香里も説明をしてやった。 香里は今回の立役者であるライターを見てやった。あんまり同じ事はできないわね。ガスの残量を確認しての不快げな感想であった。 ここでやらねばならない事は全て済ました。道を邪魔する者ももういない。後は先へと進むだけだ。 来た時と同じ道を、同じメンバーが、引き返し始めた。最初と違うのは腕に抱えられた4本の赤い筒だ。 復路はコレと言って問題はなかった。消火器の重みのせいで足は鈍かったが、重い荷物があったのは往路も同様であった。 さて、あっという間に3人のスタート地点である、暗闇への入り口の手前へと戻ってこれた。問題がなかったのはココまでだ。 暗闇を前にして一人の女性が不安そうに手を震わせている。その様子はまるで蛇を前にした蛙だ。 「名雪。この状況では、悪いけど一人で置いていくわけにはいかないの」 「わ、わかってるよ」 とは言ったものの、彼女の足は動かない。貴重な時間は浪費される一方だ。 「そんなに不安にならなくても大丈夫よ。この、どう考えて運動能力に欠陥がありそうな妹でさえ一人で平気だったんだから」 そう言って香里は傍にいた妹に視線で合図を送った。長い間一緒に育った姉妹だ、その合図を見逃す事はない。 「そ、そうですよ!そんな大げさに考える必要はないですよ」 本当は、運動部の部長と運動能力を比べるな!とか叫びたかったが、ここは妥協した。時間の浪費はさけたい。 「う、うん。そうだよね。私は陸上部の部長さんだもん。大丈夫だよね。栞ちゃんでも平気だったんだから」 「そうですよ(意訳・部長なら部長らしくもっとしっかりしろよ!!人の事をなんだと思ってる!?)」 栞はあからさまに顔が引きつっているが、名雪は気が付いていない。顔がさらに引きつる。 後ろに控えていた香里が、名雪に見えないように妹の手に何かを握らせた。それを見て、さらに顔の引きつりが酷くなる。 手に握らされた物、それは一つの飴玉だった。しかも子供が好んで食べそうな甘ったるい飴玉だった。 お礼として、栞は姉の足を思いっきり踏みつけた。そして笑顔で姉を見る。甘い物食わせておけばいいと思わないでください。そういう意味での笑顔だった。 香里は笑顔に対して笑顔で返す。そしてまたしても妹の手に何かを握らせた。……またしても飴玉だった。しかも今度は3つ。 再び姉の上に置かれていた妹の足に力が込められる。そして再び手に飴玉を握らせる。 「何してるの?早く行こうよ」 水面下での激しい攻防(?)がぴたりと止まり、姉妹は名雪のほうを振り向いた。そして姉妹は固く手を握りあう。 この屋敷から無事出られたとしたら、間違いないなく、名雪は美坂姉妹に充分以上の報復に晒されるだろう。 暗闇に足を踏み入れる3人。先頭には、唯一内部の様子を知っている栞が担当している。彼女の手には松明が握られている。 もう北川が用意しておいた蝋燭は全て消えていた。頼りになる明かりは手にある松明だけとなってしまった。 そんな闇の中をゆっくりと先へと進んでいく。その歩みは、非常にゆっくりとしたものだ。 栞はもっと早くこの消火器を祐一たちのいる場所まで持っていきたかったのだが、姉の「こういう場所では一歩一歩慎重に進むものだ」との言葉に従っている。 足に傷を負ったのはつい最近の事だし、転んで消火器が暴発したら、元も子もないので仕方が無い。 最初にここに来た時には、緊張感が彼女を満たしていた。そして復路ではただ、使命感と不安が彼女を動かしていた。そして今は焦りが彼女を支配している。 「こっちです」 松明がどんどん奥へと進んでいく。錠前を外した扉があるので、最初のときよりはショートカットができる。 名雪は一番後ろを歩いていた。さっきから両手に消火器を持っているので疲れが溜まってきている。重い物を持つのは専門外だ。 最初に思っていたよりはそれほど怖くは無かった。暗いのは不安に繋がるが、もう何度か使われた道だ。それほど怖くは無い。 それに目の前に香里が歩いているのも心強い。その香里がこちらを振り向き、そして微笑んだ。わけがわからない。 次の瞬間に右手を掴まれ、名雪の体は思いっきり前方へと引っ張られた。 「な、なにっ!?」 名雪の後方から轟音。鈍い音が響く。そのすぐ後に強風が吹いた時のような音がした。 「な、なんですか!?」 先頭を歩いていた栞も、轟音によってトラブルの発生を知り、声をあげる。彼女にも何が起こっているかはわからないようだ。 同じように当然の出来事に訳がわからないでいる名雪が後ろを振り向く。だが、事態の把握には至らなかった。 後ろを向いた彼女を、ピンク色の粉煙が歓迎した。それが目に進入し、目が開けられないほどの刺激が眼球にはしる。涙腺がその機能フル活動し始めた。 「あうっ!」 そんな名雪にまたしても香里の手が差し伸べられる。 「大丈夫よ。すぐに目は開けられるようになるから」 言葉の通り名雪の目から徐々に痛みが引いていく。何回か涙を拭く作業を繰り返した後に、少しずつ目を開ける。 ようやく自分がどんな目に会ったのか理解する事ができた。彼女の目に映ったのは不気味な光景だった。 松明の赤い明かりが写す風景。ピンク色の粉末に降り積もった室内。赤い明かりに照らされて不気味な光景になっている。 そして轟音の源。それは自分が歩いていたすぐ横にその威光を放っていた石造だった。それが自分が歩いていた場所に倒れ、砕け散っている。 それの下敷きになっているのが、さっきまで自分が持っていた消火器の一本だ。引っ張られたときに落としてしまったらしい。それがこわれて粉を噴出したのだ。 今ごろになって名雪は震え始めた。目の前で無残に潰れている消火器。それはもしかしたら自分がそうなっていたかもしれない姿だ。 「あ、あ、あ、あの?」 「なに?」 「ありがとう」 「どういたしまして」 これで自分は二度死んでいる。一度目は祐一に助けられ、二度目は香里に助けられた。 いい友人を持った事に感謝すればいいのか?それとも自分の身の不運を嘆けばいいのか?とにかく今はこんな場所から立ち去りたかった。 名雪は立ち上がり、無事だった消火器を手にとって歩き始めた。 「これからは私が一番後ろを歩くわ」 それは名雪にとって非常にありがたい一言だった。 ようやく闇が途切れ、日の光が3人の目に飛び込んできた。 「こっちです!」 栞は駆け出し、祐一たちが炎に監禁されている部屋の前へと急いだ。名雪もそれにならう。 忙しい事だ。香里は自分のペースを守って歩き出そうとした時、ふと後ろに何かの気配を感じた。 地面に男の生首が転がっている。断面を床につけ、まるで晒し首のようだ。両脇には同じく切断されたらしい両手、手首から先の部分が同じく地面からはえている。 突如その生首の目が開き、香里をじっと見据えた。口からは何か生理的嫌悪感を催す吐瀉物を吐き出している。 両腕もぴくりぴくりと動き始めた。そしてさらに信じられない事に、徐々にこちらに移動してきている。いったいどんな方法を用いているのだろうか? その普通では考えられない物体を前に少し考え込み、手に持っていた消火器を思いっきり振り下ろした。 鈍い感触が消火器を通じて香里の手に伝わった。紹介は見事に頭蓋骨を粉砕している。生首と腕は動かなくなった。 「どうかしたの?」 音で気が付いた名雪が後ろを振り向く。すかさず香里は名雪の方に振り向く。その時に体で生首を遮る事を忘れない。 「別に……なんでもないわ」 距離が幸いし、名雪は生首の存在には気がつかなかった。香里は消火器を手にして、炎の部屋へと近づいていった。 自分が一番後ろを歩いていてよかった。香里は自分の判断に満足していた。 面倒は少ないほうが良いのだから。 ドアの前に立つと、猛烈な熱気が彼女たちを歓迎してくれた。あれからかなりの時間が経っているのに、炎は最初と同じ勢いを保っている。 「祐一さん!北川さん!大丈夫ですか!?」 熱気で内部の様子がよく見えない。入り口から栞が声をかける。彼女の肌にはもう汗が浮かんでいる。 「生きてるぞ〜」 炎の中から返事が返ってきた。これは北川の声だ。 「祐一さんは!?」 「生きてるぞ。早いところ火を何とかしてくれ」 「わかりました。消火器を使いますんで、目と耳を閉じておいてください」 「了解!やってくれ」 声が聞こえると同時に、紹介を持っていた香里と名雪が前に出てきた。安全ピンを引き抜く高い音が響いた。 消火器のレバーに力が込められる。大きな音と共に噴煙が立ち昇る。粉末式の消火器だったようだ。 しばらくすると、噴煙の威力が弱まり、最後には噴射がとまる。空になった消火器が放り投げられ、二本目の消火器も同様に噴煙をあげる。 3本の消火器が空になる。今まで赤く染まっていた部屋は、今はピンク色の噴煙に覆われている。どうやら火は消し止められたようだ。 だんだんと噴煙がおさまり、内部の様子が明らかになってくる。十分に視界が確保できるようになるまで時間はかからなかった。 「祐一さん!」 「祐一!」 消火器の粉まみれになり、ぐったりとしている祐一に、名雪と栞の二人は急いで駆け寄った。室内はまだ炎の余熱で汗をかくほどに熱い。 「大丈夫ですか?」 名雪が抱え上げた祐一の体はぐったりとしている。よほど汗をかいたらしく、着ている服にはびっしりと塩が浮いている。 顔を見てみると、祐一は目を閉じていた。生きているのか?名雪は抱え上げた体を大きく揺さぶる。すると、ゆっくりと閉じられていた瞳が開き始めた。 「生まれて……初めて……本気で死ぬかと思ったよ…」 乾ききった唇から、弱弱しく言葉が紡がれた。 「すいません!私がもっと早く来ていれば」 栞も名雪と一緒になって祐一の体を支える。当人たちは必死なのだろうが…その抱え方は捕獲された宇宙人のようだ。 「別に…充分だよ。とりあえず生きてるんだし」 捕獲された宇宙人はその手を振り払い、自分の足で立とうとした。しかし上手くいかない。 「あ、少し休んだ方がいいよ」 「いい…こんな所……舞に見られたら……泣かれる」 この、自分の命を助けるために体を張って努力した女を前にしたデリカシーの無い男は、女性二人の見事なチームワークによって床に放り投げられた。 床に大の字になって倒れている宇宙人に手を差し伸べる人はいなかった。同情の余地は無い。合掌。人に助けてもらったときにはお礼を言いましょう。 一方、もう一人の炎の被害者は、もう一人の女性に開放されていた。 「遅いじゃないか…美坂。美坂との楽しい未来図を考えていたのに…全部無駄になったじゃないか…。才色兼備の名が泣くぞ……」 「…………とりゃ!」 いつのまにか香里の手に握られていた鈍器が北川の頭に振り下ろされる。 「あだっ!!せっかく人が格好つけてるのに、ちょっと酷くないか」 こちらは祐一とは違ってまだまだ余裕がありそうだ。祐一が服に塩をびっしりと浮かせていたのとは対照的に、北川はほとんど汗すらかいていない。 「それなら一つ聞きたいのだけど、私の首に回された手には何の意味があるのかしら?」 「もちろんそれは、死の間際に最愛の人を胸にだな」 「じゃあ…死ぬ覚悟はできてるわけね」 「……わかった…俺が全面的に悪かった」 「しかしまあ、随分と余裕があるみたいね」 「ミドルイーストに滞在している時よりはずっと楽だった。酒が恋しいとは思ったがね」 「あなた、自分が何で殴られてたか気が付いてないの?」 北川は香里の右腕に視線をやる。なるほど、自分が何を望んでいたかを彼女は理解していたらしい。おそらく台所から拝啓してきた品だろう。 たまらない、目の前にいる女性に対してある種の感情が噴出してくる。これだからいいのだ。 「結婚してくれ」 「寝言は寝てからいいなさい。とりあえず飲みなさい」 「戴きましょう」 酒瓶を受け取り、直接口をつける。熱さに痛めつけられ体に活がはいる。今までとは違った心地よい熱さが体の内部から湧き上がる。 口を離してラベルを確認する。 「47年ヴィンテージのアルマニャックか。コレ一本で10万以上するぞ」 「一応言っておくけど、あなたがやっている事は窃盗よ」 例え中に人が住んでいない、それも放置されて何十年と経っているような建物にも持ち主がいます。 たとえ紙切れ一枚持って帰ったとしてもそれは窃盗です。皆さんは廃墟を探検する事があっても、内部を破壊したり、物を持って帰ったりはしないように。 「気分を害するような事を言わないでくれ……。だいたい消火器を使うのだって十分犯罪だぞ」 「人が苦労して助けてあげたのに礼の一つも言わないから……少し仕返ししたくなったのよ」 「そ、それは……助けてくれてありがとう」 「……気持ち悪い」 「………………はぁ」 まあこんな事になると思っていたさ。北川は高い酒を味あうように再び口に含んだ。個人的にはウイスキーの方が好みなのだが、物がよければブランデーでも十分に楽しめる。 「お姉ちゃん、北川さん、水ありませんか?このままじゃ祐一さんが干からびてしまいます!」 「この馬鹿のせいで忘れてたわ。栞、どこかに休めそうな場所はないの?」 「それなら出てすぐの部屋がいい」 返事は栞ではなく、北川がした。彼がさしている場所は、ここからでてすぐのソファーが置いてある部屋だろう。 行動は早かった。ぐったりとした祐一を、同じ部屋にいたのに平然としている北川が背負い、部屋をでた。 部屋に戻った二人は、手身近に状況を説明が部屋に響く(当然大きな蕪という単語も使用した)。 大きな蕪、この単語を聞いたとき、栞は何とも言えない微妙な表情をし、名雪は懐かしそうな表情をした。 祐一はあえて感想を漏らさず、表情も変えずに酒瓶に口をつける事で返答保留の合図を出した。 全員の返答を見て満足した北川は出発を促した。全員がぞろぞろと部屋を出始める。 このころには祐一も四分の一病人にまでは回復していたので、蕪を引っ張る作業に参加する事にした。 しかし問題の金属製の蕪は手ごわかった。例え二人が五人に増えようともびくともしなかった。 おとぎ話であれば、さらに人数の増員を望めるのだろうが、現実はそれほど楽しくも都合よくもできてはいなかった。 他に呼べるあてはなかった。有るとすればせいぜい死体程度しかない。そして死体は協力的どころか、敵対状態にある。 こちらが頭を下げて物事を頼んだりしたら、喜んで下がってきた頭にかぶりついてくれるだろう。 「あまりやりたくは無かったが…」 北川は腰に下げていたマチェットに手を伸ばす。彼の手に、信頼を生み出すのに十分な重量が伝わる。 「あ、せーの!!」 振り下ろされる銀刃。鍛えられた金属と金属が激しく触れあい、甲高い音と共に派手に火花を散らす。 本人は切り落とすつもりで放った渾身の一撃も、鎧へ軽くへこみが入れた程度だ。それどころか殴ったほうのマチェットの刃のほうが欠けている。 「こんなもん着た兵隊をどうやって西洋の連中は倒してきたんだ!?」 北川自身も、金属から伝わってくる衝撃で腕が痺れている。 「西洋の鎧は日本のそれと違って機動力よりも防御力を重視して作られているわ」 「今、実感した」 「当時の主流としては、鎧の無い部分を突いたり、巨大な武器や重量を利用した一点集中攻撃、慣性を利用しての貫通、そして弓なんかで戦っていたと思うわよ」 「コイツじゃどう頑張っても無理って事だな。本業は切り込みだ」 「詳しくはジャンヌ・ダルクの映画でも見る事ね」 ジャンヌ・ダルクは中世ヨーロッパにおける100年戦争で活躍した英雄である。確かに中世の戦争を見るのには適している。 「今はジャンヌ・ダルクよりも死霊のはらわたが見たい気分だな。今の状況にぴったりだ」 「悪趣味ね。サム・ライミ監督ならスパイダーマンにしておきなさい」 「俺はアメコミには興味がないんだ」 「だいたい「EVIL DEAD」のどこをどう訳したら死霊のはらわたになるわけ?」 だんだんと話がずれてきたようだ。二人とも目の前の問題よりも映画論議のほうに意識がよっているようだ。 「その理屈で言うなら突っ込むべき映画は多々あるぞ…サンゲリア・ZOMBI2とか」 「あのロメロ監督がまったく係わってない映画ね。ゾンビがサメと戦うシーンは思わず笑っちゃったわ」 「ああ、B級全開のシーンだったな。しかしロメロゾンビはいいよな。最近リメイクが出たけど、出来の悪さに眼を覆ったよ。ロメロ特有の社会批判が何も無かった。だいたいゾンビを走らせるな」 「あの…今は映画の話なんてしてる場合じゃないと思うんだけど」 遠慮がちに名雪の声が二人の会話に割り込んできた。たしかに、幽霊屋敷でホラー映画の議論をするほど間の抜けた話はないだろう。 関係ない話だが、彼らが話していたホラー映画は、どれもハッピーエンドとは無縁の代物ばかりである。 「……私とした事が、ちょっと熱くなってたみたいね」 「そうみたいだ…」 「でも、二人とも映画が詳しいんだね」 「豊かな人生を送るためにはより深い教養が必要よ。映画は心を潤してくれるわ」 「そうそう、教養は大切だよ。いい男になるには欠かせない」 「……それがあれば必ずいい男になれるわけじゃなさそうね」 「俺を見るなよ」 「二人とも楽しそうだね」 祐一は3人の会話をロクに聞いていなかった。あのような会話は心に余裕がある者にしかできない。 もしくはその気に当てられたものだけだ。祐一にはそのどちらもなかった。 ジャンヌ・ダルクか。確か彼女は神の声を聞いて戦争を勝利に導いたらしいな。俺にもそんな声が聞けたら…。 だが、このまま諦める事はできなかった。祐一は祈るような気持ちでもう一度槍にすがりついた。 頼む!抜けてくれ! 突然祐一の尻に痛みが走った。何がなんだか理解ができなかった。気が付いたら自分は尻餅をついて地面に座っている。 横で金属音がした。見れば、先ほどまで鎧が手に握っていた槍が転がっている。 「あれ?」 訳がわからなかった。どうして自分はコレを抜く事ができたんだ。あれだけ強固に固定されていたのに。 「すごいじゃないの、相沢君!」 「…………」 祐一は何も言わなかった。どうしてこうなったか分からないのに、喜ぶ気は起こらなかった。分からない事は不安だった。 甲冑の手には、ちょうど槍を持たせるのに都合がいいだけの間が開いていた。北川はそれを確認して甲冑に手をやる。 そこに慎重に先ほど手に入れた槍を差し込む。他の4人は緊張しながらその作業を見守っていた。槍は呆気ないほど素直に手に収まった。 何も起こらなかった。部屋には静寂だけが存在している。それを突き破るかのように閃光、そして時間差をつけて轟音。雷は今もやまない。だが、それだけだ。 誰もが落胆し始めたその時、一際大きな光が彼らを包み込んだ。そして轟音。 「きゃぁっ!!」 誰かの悲鳴があがったが、当人以外それを誰が発したかは分からなかった。閃光は視神経を痛めつけるのに十分な量だった。 最初に目を開けたのは祐一だった。だが、閃光のせいか、ほとんど光学的な役割は果たせていない。だから、最初に目の前で起きた自体を感知したのは他の感覚だった。 肌に懐かしい感触がよぎった。風が肌を切る、あの心地よい感触だ。……おかしいじゃないか、室内で風が吹くはずが無い。祐一はあせる。 正体の分からない異変は容易に恐怖へと変化する。この時も例外ではなかった。祐一の心に恐怖が湧きはじめた。そして正体が分からない限り、それは大きくなり続ける。 ようやく目が本来の性能を発揮し始めた。薄ら薄らと視界が広がり、自分の目の前で何が起こったかを知らせ始める。 風が吹いていたのは当然だった。蒸し暑い室内と外の外気が交われば、そこに気流ができるのは当然だ。 そこには壁が無かったのだ。あるのは壁だった構成物だけ。だから風が吹いた。あの閃光は、雷は、俺たちが突破できなかった壁をいとも簡単に破壊したのだった。 中庭までの、発電機があるらしき場所までの道が開けたのだ。 他の4人はまだ視界が戻っていないようだ。各々が眼を押さえたり、こすったりしている。 そんな中で、栞はダメージが大きかったのか、足元まで安定を失っている。そしてフラフラと開いた穴のほうへと足を進める。 そこは瓦礫の山だった。雷によって破壊された壁の構成物や、ガラスの破片が散乱している。 その瓦礫が彼女の足の自由を奪った。その結果、彼女はガラスの破片への招待状を送られる。体が円を描きながら倒れこむ。 祐一にはその光景が妙にゆっくりと見えていた。そして体は無意識に動いていた。 「あぶないっ!!」 寸でのところで腕をつかめた。祐一が思っていた以上に軽い体重を腕の力と足の力でそのまま安全圏にまで引き上げた。 どうして女って奴はこんなに男よりも華奢に出来ているんだろう。だから男にすがるのか? 「放して…」 「……」 「放してください!!」 自分よりもずっと非力なはずの手が、俺の手を振り払う。振り払われた手が妙に冷たく感じられた。 別に礼を言われたくて助けたわけじゃない。祐一は思った。誰だってあの状況だったらそうすると思う。見捨てる方がおかしいと思う。 でも、一度失ったモノはもう戻らない。俺があの時に何も言わなかった事が、彼女には相当堪えたらしい。好意は嫌悪に変わった。それでいいはずだ。俺はそうしようとしていた。それなのに、どうしてこんなにも振り払われた手を痛みを感じるほどに冷たく感じるのだろう? 覚悟の不徹底。いつだってそうだ。中途半端な自分自身が嫌になる。心なんて無くなってしまえばいい。 激昂している時ならまだしも、落ち着いているときにその目で見られるのは辛い。自分で選んだ道のはずなのに。 栞は今もあの目で俺を見続けている。いたたまれなくなって俺は自分から目を逸らした。 「ここまでくると…常識って言葉が馬鹿らしくなってくるな」 あの目を忘れるために、祐一は目の前の現実に眼を向ける事にした。確かにこの状況は常識じゃ考えられない、今更だが。 「何だ相沢、お前まだ常識にしがみつこうとしてたのか?」 北川は楽しそうに祐一の顔を見ていた。楽しくてたまらない。それが祐一から見た北川の感想だった。最初からそうだった。 祐一にはそれが非常に不愉快に感じられた。常識のありがたみを、無条件で信じていた事柄を否定されるような状況に陥って、楽しいわけがないのだから。 いや…北川くらいの余裕、あるいはふてぶてしさがあれば、自分はあの時に栞ももっと上手くあしらえたのではないか?少なくとも今後に支障が無い程度には。 「俺はお前とは違うからな。危ない事は一人でやって、一人で死んでくれ」 そんな言葉が喉の奥に浮かんだが、口から外には出さなかった。まだ、そこまで愚かになれるほど北川に対して不の感情は頂いていなかった。 北川は俺を助けてくれたのだから。……これからも俺を助けてもらわないと。 |