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二月 命なき名誉3
外に出ても、一向には安息や爽快感といったモノは与えられなかった。彼らを迎えたのはただ、冷たい、夏とは思えない冷たい風だけだった。
太陽は大きな屋敷に遮られ、庭にはほとんど光が届かない。仮に屋敷が無かったとしても、厚い雲が全ての光を遮ることだろう。空は灰色の雲に一面覆われている。
そんな中を歩いていく5人の目的は、発電機の起動だった。それが叶えば、今まで闇に包まれていた屋敷内部に、光をもたらす事ができるだろう。 少なくとも、暗闇に紛れて不意打ちを食らう事だけはなくなる。置かれている現状に変化はないが…。
5人はその発電機が納められているであろう建物の前にまでやってきた。北川がドアノブに手をやる。鍵は掛かっていなかった。錆び付いてボロボロになった扉が安普請な音をたてて開いた。
「真っ暗ですな」
建物の中は真っ暗だった。一応外からの光も注がれてはいるが、すでに陽光自体が役に立たないレベルまで落ち込んでいるので、何の役にもたっていない。
「そうだな。照明とかあればいいんだが。北川、さっきの松明を出してくれ」
「発電機はガソリンで動くだろ。そんな場所で火を使うのは自殺行為ですぞ相沢さん。ほらのび太くん、コレを使うんだ」
どこかで見た事があるようなポーズを取って、懐から何かを取り出した。それは単三電池2本を収納する程度の大きさのペンライトだった。
「………そんないい物があるのに、どうして今まで出し惜しみしてたんだ?」
色々な意味でのイラツキを堪えながら祐一は尋ねた。平時だったら北川の顔には拳の形をした窪みができていた事だろう。
「ほら、よく言うじゃないか。切り札は最後まで取っておけと。それにライトのバッテリーだって無限じゃないからな」
「同感。最後まで取っておくから切り札って言うのよ」
「前から聞きたかったんだけどお前らどうしてそんなに平然としているんだ?」
その答えは瞬時に、そして同時に返ってきた。
「怖がっても仕方がないから」
「美坂の前でいいカッコしたいから」
その答えを聞いた祐一は何も言わず、ライト片手に室内へと足を踏み出した。もう彼らは自分とは違う人種だと思うしかないと悟ったようだ。室内に入ると、肌を撫でるように湿気が彼らにまとわりつく。さらに気温が高く、埃と油の匂いまで漂う室内は人がいるには不快な事この上ない環境だ。発電機はそんな室内の中央部に座していた。
「動くか?」
発見と同時に発電機に貼りついた北川に祐一が尋ねた。発電機は、ところどころボロボロになっていたり、錆が浮いていたりはするが、目立った損傷は見られない。何よりも、厚く積もった埃が掃われている場所が存在する。
それはおそらく先にやって来た真琴たち先遣隊がやった事だろう。そして彼女達は自分達の行動範囲にいない。つまりコレを動かして先へ進んだのだ。
「かなり古い物だから構造自体は単純だ。燃料さえ入れればすぐにでも動くと思うぞ」
「燃料がないのか?だけど、そんな物ここの何処にもないぞ」
「この建物から少し離れた場所に貯蔵庫らしき建物があったわ。それにガソリンを取り扱っていることを示す看板がついていた。多分あそこに備蓄してあるのは間違いないわね」
香里が壁のとある方向に指を指した。
「んじゃ、俺がひとっ走り行って確保してくる。飯さえ食わせればコイツもせっせと働いてくれるだろうよ」
「それじゃ…俺も行くよ」
「いや、相沢はここで女性陣の護衛でもしていてくれ。その代わり、美坂妹に一緒に来てもらいましょう。いいですか、保護者のお姉さま?」
「怪我人働かせる気?いい根性してるわね。それくらいだったら全員で行けばいいだけの話じゃないの。もしくは一人で行きなさい」
「別に怪我人を働かせる気はないから。それにわざわざ全員で行く必要もないぞ。ただ一人だと何かあった時不安だと思っただけだから。当然荷物は全部俺が持ちますよ。だから美坂妹…」
アイコンタクと言う奴だろうか。北川と香里の二人は言葉を交わしながらお互いの目を見合っていた。そしてほんの二呼吸ほどの間無言の探りあいの後、先に香里が口を開いた。
「そういう事は本人に聞きなさい」
どうやら彼女は折れた、もしくは納得したようだった。
「私、行きます」
その言葉を聞いて、今までの動向を観察していた祐一は小さく安堵のため息を吐いた。正直、栞と一緒にいないで済む事ほどありがたい事はなかった。北川はその為に全員で行く事を拒否して、栞を指名したのだろうか?だとしたら…改めて北川の凄さを実感しなおした祐一なのだった。
北川と栞が目指した目的の建物は、おそらく有事の際の安全確保のためだろう、発電機が詰まった建物から20メートルほど離れた場所に建ててあった。
そのコンクリート作りの建物の内部は予想通り、液体燃料の保管庫だった。室内にはおそらくガソリンが詰まっているだろうタンクが大量に並べられていた。
北川は宣言どおり、栞を一切働かせずに自分ひとりでタンクを入り口の側まで移動させた。いかに比重が軽いガソリンとはいえ、それが満載されたタンクを軽々と運ぶその体力は大した物だ。
「18リットルタンクが6個。合計で100リットル以上。これだけあれば当面の電力は確保できるだろう。ちょいと運ぶのが難儀だが」
「本当にこれだけで足りるんですか?もし途中でガソリンがなくなったら困りますよ」
「よく考えてみたまえ。一般的な乗用車の燃料タンクの大きさはだいたい平均で40リットル。それでどれだけ車を走らせる事ができる?ここから出るか、救助が来るかするまでは充分もつだろうよ」
もっとも、救助なんて連中が来るとは誰も信じてはいなかったが。現在の自分達は2重遭難してここに閉じ込められている。救助に来るのがどんな人種なのかは分からないが、まさか亡霊屋敷対策をしたチームだとは思えない。今度は三重遭難者が出来上がるだけだろう。
「そうですか…。ともかく早くコレを持って帰らないと」
「まあそう慌てないで。せっかく二人きりになれたんだから、少し話でもしませんか」
そう言って北川はガソリンを満載したタンクに腰を下ろした。同時に足場代わりに使われていた椅子を栞の方へ押しやった。
「そういう事は…もっと落ち着いた時にするものだと思います」
「そりゃそうだが、今回はこんな状況だからこそ話しておきたい事があるんだけどなぁ…」
「ならお姉ちゃんと一緒の時にすればいいじゃないですか。それとも、お姉ちゃんには言えない様な話なんですか?わたし、北川さんの恋路の応援なんかする気はありませんよ」
栞は終始不機嫌な顔で北川の相手をしていた。栞にとって、今の状況で目の前でへらへらとした顔をしながら話をされるのは、不愉快以外の何者でもなかった。だいたい、知り合って間もないのに、こんなに馴れ馴れしくされる覚えがなかった。
「そりゃ残念だ。お兄ちゃんとかお兄様とか一度でいいから呼ばれて見たかったんだけどな。で、最初の質問は半分正解で半分はずれ。これからするのは美坂以外の二人にも聞かれたくない話。内緒話ってやつですな」
「私には聞くべき事なんてありませんから」
「それが相沢に関することでも?」
その質問に対して、栞は直接返答をしなかった。ただ黙って差し出された椅子に座っただけだった。
「まるでパブロフの犬だな。いや…美坂妹の場合は犬というより子猫って所か。いや、しかし愛されているね、相沢の奴。うらやましいぃー!」
「早く…話してください」
震える声で栞が返答する。こんな男に右往左往させられている自分が嫌で堪らないようだった。彼女の北川に対する感情は、もうこの時点で怒りから、殺意に近いものへと変化していた。
そんな栞の気配を察したかどうかはわかないが、突如北川は真面目な顔をした。そして口を開く。
「美坂妹が相沢の奴に好意を持っているのはよく分かる。こんな状況だ、アイツに頼りたくなるのも、甘えたくなるのもよくわかる。相沢は普段からいい奴やってるから出来るだけ答えようとするだろう。だがな」
彼の声は、今までのふざけた声ではなかった。それは、悪童が人をからかう物から、官憲のような威圧と強制を含んだものへと変わっていた。
「そっちょくに言おう。これ以上相沢の奴に構うな。美坂妹が相沢に何かするたびにアイツは追い詰められる。美坂妹のせいで相沢の奴が追いつめられる様を見るのは不愉快なうえに不利益だ。俺にとってな」
「……………そんな事命令される覚えはありません」
「そんな目で見ないで欲しいな。いや、怖いね。怒った女の子は怖いよ。おそろしい!女は理知的って世間ではいうけど、実際は感情の動物だね。突っついたら何をされるか分からないって奴だ。今俺は、非常に危機的状況におかれているのかもしれないな」
北川の真剣な表情が再び人を食ったようなそれに変わる。だが、話し終わった後に何かに気づいたかのように頭を掻いて、再び表情を真剣なモノに戻した。
「でもね、よく考えてみてくれ。俺にとって美坂姉はこの世で最も側に居て欲しい人だ。水瀬は美坂姉の親友で、俺のクラスメイト兼友人。相沢も同じく。で、君はなんだ、美坂妹?」
確かに栞にとっての北川とは、姉の友人、思い人の友人でしかなった。お互いについて何かを知っているような関係ではない。だからと言って、こんな風に命令されるのが気持いいわけがない。しかしこれ以上何も言わなかった。目の前にいる人物は、そのような事を許さない。今の北川にはそれだけの威圧感があった。
「美坂妹のその『私が愛したんだからあなたも私を愛して当然よ。あなたは私みたいなか弱い女性をみすてないわよね。私これだけあなたに尽くしたの。だから側にいてもいいのよ』みたいな思いはとっとと破棄しないさい。中学生レベルのメンタリティーで接せられるとね、大人は疲れるんだ。美坂妹だって小学生相手にしてたら疲れるだろ。想像力を全開にしてみなさい」
「っ!!」
このような事を言われて黙っていられるのは、よほどの大物か、バカくらいのものだろう。美坂栞はそのどちらでもなかった。例え相手の言う事にある程度の理がある事を認めたとしても、いや、だからこそ感情の激化を抑えることが出来なかった。彼女は感情が命令する通りに体を動かそうとした。感情は、目の前にいる男を思いっきりぶん殴ってやれと命令していた。だが、できなかった。体を動かしたその瞬間、怪我をしていた足にするどい痛みが走ったからだ。おそらく倉庫内にあった物だろう棒で彼女の足を押さえ込んでいた。
「ハッキリ言おう、俺には美坂や相沢の味方をする理由はあっても、美坂妹のために何かする理由もなければ義理もない。これ以上相沢を追い詰めるなら……」
瞬間的に栞の顔色が悪くなる。今までもよいとは言えない青色だったのが、もはや蒼白にまで達している。だがそれを見て、北川の表情が突如、先ほどまでの緩いそれへと戻った。
「冗談冗談。別になにもしないって。今まで言ってたことも全部冗談だと思って忘れてくれればいいから。ゴメンね、足痛かったろう。でも俺も殴られるのは嫌だったから勘弁してくれ。一応手加減はしたから大丈夫だろうし」
北川の声は、今までの話が冗談だと信じられる声だ。オーバーに手でおちゃらけた仕草までする始末だ。今までの話は冗談だと思って、笑って済ませばそれまでの様に見える。
「でもね…この程度の揺さぶりでビビッてるような軟い精神なら…あんまり大それた事しない方がいいよ」
つまり、目の前の男は自分の事を試したわけだと栞は理解した。自分が精神的に揺さぶりを掛けられていたのは不愉快だったが、それを思考かできるほど、今の栞には余裕がなかった。心の中には恐怖が充満していたからだ。
「ま、冗談半分の話だったとはいえ俺の話の事、少しは覚えておいてくれよ。相沢は彼女いるんだから。よく考えてみてよ。自分が好きな男が、彼女がいるのに別の女の子の言葉に揺り動かされるような奴だったら嫌だろ。美坂妹はそんな浮気性な男に恋をするほど愚かじゃないだろうに」
「は…は…」
栞の乾いた笑い声が建物に響いた。心拍数が異常なまでに上昇し、手にはびっしょりと汗をかいていた。この化け物が満載された状況で、一番の恐怖を与えたのが人間だと分かった時、笑うしか選択肢が思いつかなかったからだ。
「でないと……俺も…本気になるよ。話はこれだけだから、もう行っていいよ」
『本気になるよ』この言葉を聞いて顔が引きつった栞を、無理やり建物の外へと押しやった。
彼女が完全に室内から姿を消すと、北川は懐からタバコの箱を取り出した。そこから一本だけタバコを取り出し、さすがに火をつける訳にはいかないので、口に咥えるだけに止めた。
「かわいいねー。一言一言真剣に聞いて、追い詰められた子猫の様に反応しちゃって」
北川にとって、ああいった自分を侮る女性の表情が緊迫や恐怖に怯えるそれに変わるのを見るのは、非常に堪らない瞬間だった。もちろん今回はそれを見るためにこんな話をしたわけではなかったが(いくら趣味が悪かろうが状況は選んで遊ぶ。遊びは、観客が笑ってすませられる範囲でやるものだ。もっとも…他人という名の観客は、常に人の不幸を探してやまない連中なのだが)。
「このままだったら美坂妹はどうなることやら?人間テンぱるとどうしようもない事ばかり考えるようになるからな。谷底への道ばかりを選んで進むかもしれないな」
実際、自分が美坂妹の為に何かする理由はなかった。美坂妹になにかあれば、美坂の奴は悲しむだろう。だからといって俺が美坂妹を助ける理由にはならない。その場合は美坂を慰めるのが俺のやらねばならない事だ。美坂妹の身の安全を確保するのは、美坂妹自身がやらねばならない事だ。出来ないなら死ねばいい。死んでも、美坂や水瀬や相沢と違って、別に何も感じないのだから。
「…っ……っ!」
タバコを咥えた口の端から、笑い声が漏れた。北川には今の状況が、普通では考えられないこの状況が楽しくてたまらなかったからだ。ここでは人間が命の危険にさらされている事、常識外な行動ばかり要求される事、そのせいで人間がバカ正直になれる事。どれもが楽しくて楽しくて楽しくて堪らない。腹の底から笑いがこみ上げてくる。あの栞にしても、もしこのような場所に足を踏み入れなければ普通に相沢を諦めて、適当な距離を保ちながら友人を続けられていただろうに。それが正直になってこの有様。楽しくてたまらない。
ある意味では北川は非常に平等な男だった。彼は命がドブにさらされているこの状況を見て、心の底から楽しんでいた。これなら他人の不幸を喜ぶような連中と何も変わらない。ただ彼は自分の命もドブにさらされている状況も、心の底から楽しんでいた。本当に、心の底から、命の炎が暴風に襲われている事を楽しんでいた。
このような人物は平時なら、現状に不満を抱きながら過ごすか、現実をより理想に近づけるかする為に犯罪者にでもなるか、軍人にでもなるしかないだろう。そういう意味では彼は立派な異常者だった。ただ、この場にいる常人の誰よりも、頭の回転が速く、行動力の優れた人物だった。故に異常者である事を咎められなかった。
ある意味では、彼は人生における最高の幸福に直面しているのであった。それが他者にとっての幸福ではありえないが。
「はい、ガソリン6人前お待たせしました」
栞が発電機のある部屋に戻ってきてから数分後、北川も同じ部屋へと戻ってきた。彼の足元には、どこから持ってきたのか、ガソリン100リットル以上を載せた台車がお供していた。
そんな北川を栞はどこか警戒するような目で見ていた。彼はそれに対して、普段と同じ態度で返答した。あの時、僕達がしたのは、世間話、だよね。そんな様子だった。
祐一はそれを見てさっそく行動に移った。ガソリンの入ったタンクの一つを手に取り、発電機の燃料タンクへと移し変えを開始し始めた。
給油口の蓋を開け、そこへガソリンを注入していく。本来ならそれは、タンクにつけた給油パイプで重力の任せるままにガソリンを注げば問題ない。だが、今回はそれがなかった。おそらくどこかにはあるのだろうが、それが目に付く位置にはなかった。となれば後は人力に頼るしかない。備え付けてあった某特許数ナンバー1ドクター考案の給油ポンプを使ってひたすらガソリンをタンク内へ補給する。
握力を使ってひたすら給油する祐一。一回ポンプを握るごとに、0.1リットルほどのガソリンが給油できる。そして給油すべき量は100リットル以上。……長い道のりになりそうだった。
「こぼすなよ、ガソリンの一滴は血の一滴だ」
ようやくの事で一つ目のタンクを汗だくになって(室内は湿度が高く、温度も高いので、労働には最低の条件だ)
「…北川…松本零次の漫画とかよく読むのか?」
「いや、その弟子の方が好きだ。あの人はロマンチズムに走りすぎるからあまり好きじゃない」
「そうですか。で、どちらの漫画にも言える事ですが、助け合いって非常に大切だと思いませんか。思いますよね」
「ああ…大切だな。でも人にモノを頼む時には何か必要な事があるのではないかね?」
「香里…俺にはコイツが何を言いたいのか理解できない。もしよろしければ学年上位の頭脳を活かして俺にご教授してもらえないだろうか」
「北川くん、労働って…尊いものよね。汗をかくって素晴らしいわ」
「そうだよ。働かぬ者、食うべからず、だよ」
「つーか、テメーも少しは働け。一応運動部員だろうが」
「り、陸上部は足が命。手を使った動作は専門外だよ」
「そうだよな、陸上部は足を鍛えるものだよな。それと同じように、全ての男は毎日握力を鍛えるものなのだよ。……一人寂しくな」
「……テメーと一緒にするな」
「言ってる意味がよく分からないんだけど?」
「知らない方が幸せだと思うわよ」
そんな水面下での争いをしながら、最終的に5人全員が長い時間をかけて給油を終えたのであった。
発電機にガソリンを入れたら、後は運転状態にしてスターターを思いっきり引っ張るだけで発電が開始される。
そのスターターを祐一が緊張した面持ちで握っている。心を落ち着けるためだろうか、深呼吸を数回した。たかが発電機の始動だけで緊張するなんてバカらしいと普通の人なら思うだろう。だが、いまここは普通の空間ではない。万が一にもこの発電機が動かなかっ たりしたら、それこそ命に関わる一大事となるのだからかれが緊張するのも無理はない。
ようやく緊張に挑む儀式が終わったのであろう。祐一は思いっきりスターターを引っ張った。全員が緊張の面持ちで発電機を見ていると、それは小気味のいい音を立てながら動き始めた。それと同時に、室内に備えられていた照明が薄暗いながらも室内を照らし出した。ようやくの事で、その大半を暗闇に包まれていた屋敷が文明の光に覆われたのだった。
「グゥレイト!!」
「よしっ!!」
「ふぅ……」
「がはっ!!み、美坂何をする!?」
「どさくさに紛れてセクハラしようとしたからよ」
各々がそれぞれの方法でこの事実に喜びの意を表した。これで少なくとも暗闇の中を怯えながら探索する必要だけはなくなったわけだ。それ以上に大切な事は、先へと進む道も同時に照らされた事。
「おい…セクハラ大王。貴様が立ったらとっとと屋敷内に戻ろうと思うんだが」
祐一が精神状態がすっかり明るくなった様子で、倒れている北川に声をかけた。どうやら発電機が無事に動いた事と、極めて明るい態度を取り続けた北川が祐一の精神によい影響を与えたらしい。(人間一つ大きな明るい要素があれば、他の事は一時的に忘れられるものだ。祐一にとっての事実は、照明が灯ろうとこの先化け物と面倒思いをぶつけてくる隣人相手に過ごす時間しか待っていないのだ)
先頭に立った祐一が外へ出ると、広い庭は先ほどと違って明るい佇まいをしていた。以前には気がつかなったが、庭には照明の設備が整っていたようだ。そんな照明に照らされた明るい庭に、何故か不思議な事に一箇所だけ真っ黒な部分が存在していた。
アレは何だ?祐一がこの屋敷に来てから身に染み付いた事、それは常に警戒を解かないだった。そして今もその法則に乗っ取って足を止め、闇を凝視し始めた。後の名雪がいぶかしんでいるのを無視して闇を見ていると、突如その闇に二つの光点が表れた。
それで初めて祐一は自分の正面に佇んでいる闇の正体を理解した。二つの光点、それはある一定の意思を宿した物体だった.
「いたっ!!」
名雪が声を上げる。前方にいた祐一が突如自分の足を踏みつけてきたからだった。それも踏んだというよりも、叩きつけるという方が正しいくらいの勢いでだ。
「祐一、痛いよ!どうし…」
名雪の非難と質問は最後まで音声化される事はなかった。祐一は名雪を踏んだ足をそのまま後退作業へ総動員させたからだ。そして前方の祐一の体の位置がずれて、扉が大きな音を立ててしまった。
名雪に、祐一の体が動き、そしてドアが閉まるまでのそのホンの一瞬だけで充分以上に自分が何故このような目にあったのかを理解できた。彼女は運動部で鍛えた分、祐一よりも視力よかったのだ。
「何?何があったの?」
一番後方に控えていた香里が、前衛二人の行動を不可思議に見ていた。ただ、声は真剣そのものだ。自分が置かれている現状をよく把握しているらしい。
「い、い、い、い、」
「い?」
「犬!」
祐一がその正体が分からない事を恐れ、名雪がハッキリと見た物体。それは犬だった。それもテレビCMに出てきそうな可愛らしい奴ではない。ホラー映画の主役でも演じられそうな巨大な犬だった。おそらく灯りにつられてここまでやってきたのだろう。
それだけだったら名雪がこれほど怖がったりはしなかっただろう。ただ、その犬は普通とは違っていた。荒い呼吸、大きく剥かれた鋭い牙、口から滴る涎。そして何よりも異常だったのは血走った瞳だった。一目見ただけで、明らかに正常な精神状態でないことがわかるその二つの瞳は、明らかに強すぎる殺気が篭っていた。それは名雪を怯えさせるに充分だった。それはもう犬でなく狂犬と呼んだ方が相応しかった。
あのまま先へと進んでいたら、間違いなくあの牙は人間たいしての凶器として使用されただろう。香里はその事を、怯えて精神状態が均衡を失った名雪から辛抱強く聞き出した。全てを話し終えた後、室内の全員は暗く沈んでいた。
祐一は無言で、懐に忍ばせていたナイフを取り出した。刃には先ほど使用した時に付いた血がまだ幾らかこびりついている。それをじっと見つめる祐一の手は細かに震えていた。
「やめておいたほうがいいぞ」
精神的に追い詰められた目で刃に付着した血を見ていた祐一の手を、北川が握った。そしてナイフをゆっくりと鞘へと戻した。仮にそのナイフを使用してあの犬と戦ったとしよう。人間の反応速度では、よほどの訓練をつまない限りは犬には及ばない。どう足掻いてもここにいる人間では先に攻撃を食らう。それはおそらく牙での攻撃だろう。動きが止まった狂犬に刃物を突き立てる事は可能だ。そのまま殺す事も出来るかもしれない(大型動物の毛皮や肉は、想像以上に強固な防御能力を有している。よほど上手くやらないと殺す事は難しい)。
死体は動かない。殺してしまえば何の問題なく先へと進める。ただ、その時に誰かが、自分達の誰かが(この誰かに自分は含まれていない。その程度の事は可能だと考えている)治療能力の限界を超えた大怪我を負っているだろう。そのまま出血多量で死ぬか、狂犬病にでも感染して死ぬか…いや、潜伏期間を考えるとそれはないか。何にしても先は長いのに大怪我を負うわけにはいかないのは確かだ。
「室内まで走って逃げるか…」
その言葉を北川が口にした瞬間、一斉に視線が一人の人物に注がれた。そして注がれた人物は、泣きそうな顔をして助けを求めるように祐一の顔を見た。だが、祐一はその視線をさりげなく外した。そんな目をされても困るのだ。
彼女はもともと体が丈夫なわけでない。むしろ平均以下の能力しか持っていないだろう。さらに、今の彼女の足には真っ白い包帯が巻かれている。
今、間違いなく、この場にいる全員にとって、美坂栞は足手まといとして認識されたのだった。
「そうすればいいじゃないですか…」
元々早いとは言えない足と、それを長時間支えられるだけの心肺能力も持たず、さらに走るのには致命的な欠陥となる怪我を負った少女は口を重く開いた。
「全員で走って逃げればいいじゃないですか!それで私を除いた全員が助かりますよ!そして私一人が殺されればいいんでしょう!」
発電機の大きくて低い音が響いていた室内に、甲高い女の叫び声が響き渡った。様々な事態に元々強固とは言えない精神にヤスリをかけ続けられた(さらに致命的な一撃を先ほど祐一から受けた)栞は、今おかれた自分の立場に耐え切れず激発した。
基本的には善良な(追い詰められたら何をするかわからない)祐一はコレと言って良いアイデアを思いつかず、さらに栞の気を静められような気の利いた台詞も思いつかなかったので、何も口に出さなかった。精神的に追い詰められていたら、目の前に少女に殺意すら覚えていただろうが。
この中で最も冷静な北川は、目の前で喚いている精神的余裕を失った小娘を相手にする必要を認めなかったので、黙っていた。自分の頭が考えるべき最優先事項は事態の突破だったのだ。
最も臆病な名雪は、自分の事を心配する事で精一杯だったので、目の前の女の子がどうなろうが、それを気にしていられなかった。そして最後の一人は…。
「落ち着きなさい栞。女の子はいかなる時にも人前で取り乱したりはしないものよ」
最後の一人、この状況において最も精神的なスタンスがわからない美坂香里だけは、この哀れな少女を見捨てたりはしなかった。あるいは肉親の情ゆえに慰めようとしただけかもしれないが。
「でもお姉ちゃん、わたし、わたし!」
「だから落ち着きなさい。ほら、女の子が男どもの前で泣いたりしないの。女の涙は男に対する切り札なんだから、安売りしたら駄目よ」
自分はその切り札を使用されても、陥落されはしなかったぞ。祐一は心の中でそう香里に呟いた。最もアレは使い方が悪かっただけで、もしかしたらもっときちんとしたら自分はもっと違った行動を取っていたのかもしれないが。いや…あれは激昂して涙が目の端に溜まった程度の量だったからか?何にしても女の涙は見ていて気持がいい物でない事だけは確かだ。
「…っ!…っ!」
「私がなんとかしてあげるから」
なんとか…か。そんなモノがあるのかと、祐一はその様子を冷めた目で見ていた。ちなみに北川は女性に対するマナーから、名雪はこの状況から受け取った何もしなかった自分に対する羞恥心から二人から目をそらしていた。
「名雪、ちょっと」
そんな目をそらしてジッと引く音を立てて動く発電機を見ていた名雪に、香里は話しかけた。
「なに、香里?」
さすがにこの言葉にまで目をそらす事はせずに、名雪は香里の側までやって来た。この時には、栞の精神も取り敢えずは落ち着きを取り戻していた。
「これをよく見て」
そう言って香里が指を指したのは、外へと通じる扉に付いた、薄汚れたドアノブだった。それ自体には別に何か注目すべき様子はない。当然そんなドアノブだから、名雪がいくら目を凝らしてそれを見ようとも、何らかのリアクションを起こす事はできなかった。
「香里、これをどうすればいいの?別に特別な事は何もないと思うけど?」
「名雪って素直だから好きよ。だから最後には私達と一緒の場所へ来るのよ」
「え?」
名雪が質問の返答にならない返事を受けた後、彼女の背中に大きな衝撃が走った。そして気が付いた時には体はドアの外へと転がり落ちていた。そして後方ではドアを閉める大きな音が響き渡った。
「か、香里!冗談はやめてよ!」
慌ててドアに飛びつくが、内部から鍵が閉められているので手が出せない。助けを求めるようにドアを思いっきり叩いてもドアが開く事はなかった。さらに、それこそ手が壊れ程強くドアを叩き続けたが、やはりドアが開く事は無かった。そして、彼女の後方から、何か大きな動物が歩いてくる音が響いた。それは彼女にとって、確認する必要のない音源だった。
この時点で彼女に与えられた選択肢は二つしかなった。抵抗するか逃げるか。そして選択者は懸命な判断をした。日々鍛えた脚力が、何の障害もなく発揮されたのだった。方向も確認しないままに全力で走り出した名雪が後ろを向いたとき、そこには荒い息で自分に向かって駆け寄ってくる巨大な犬の姿があった。彼女にはそれが、以前に本で読んだ地獄の番犬にしか見えなかった。
「さ、名雪が逃げ回ってる間に私たちは屋内へ逃げるわよ」
名雪に助けを求められていた室内は、色々な意味で騒然としていた。まず平然とし顔をした加害者が、同じく平然とした声で残る三人に自分がとった行動の最後の仕上げを指示した。
「お姉ちゃん!何てことするんですか!」
それに対して、自分の姉のとった行動が行動に目を剥いた栞が声を張り上げた。まあ、目の前で自分の姉が、人を魔女の大釜にも等しい場所へ友人を叩き出したのだから無理もない。
「はいはい、苦情は後から聞くから今は走る準備しておきなさい」
そんな自分の妹を、子供をあやす様になだめる香里。その様子は、ついさっき自分の親友を死地に追いやったとは思えない様子だ。
「お姉ちゃん!!」
「一番足が早いのは名雪だったから、名雪を囮にした。一番が私だったら自分自身が囮になっていた。これでいいの?早くしないと名雪が死ぬわよ。さぁ」
「だから!二人も何か言ってください!」
確かにこの中で一番足が速いのは、陸上部の部長である名雪である事は間違いないだろう。そして自分達には猛獣に対抗する手段がない(もしかしたら有るのかもしれないが、自分達の想像力では思い至らない)。だとすれば一番足の速い人間が囮になって、他の人間を逃がす事は悪くはないアイデアだと思う。
「番犬は主人に疑問を持たず」
とクールな北川。だいたい実行した後に、その優劣を論ずるなど(それも道義的な問題で)愚の骨頂だと考えていた。それ以前に、美坂の行動に関して自分が何かを言うべき事などないのだ(助言などは別だが)。自分は番犬にすぎない。主人の決定に正誤の判断をすべき立場ではない。
「……取り敢えず名雪が死なないうちに移動しよう」
と暗い顔の祐一。自分の考えた選択肢の中にも同じものがあった。そして、その案を実行するしかないと考えがまとまりかけていた。他にそれ以上有効なアイデアを思いつかなかったからだ。
そして自分でも(道義的に)正しいとは思えない行動を他人の手で実行されるのが、自分で実行するそれとは質の違った強い重圧を与えられるものだと知った。それが顔色の悪い理由だった。
こんな事なら自分でやっていればよかった。祐一はそう考えていた。確かに彼は追い詰められれば何をしてでも自分は助かろうと考えていた。だがその為に他人の手を汚すような事はしたくはなかった(他人を犠牲にする事はあるかもしれないが)。そういう意味では祐一は実に良心的な人物だった。少なくとも、自分の手を汚さずに他人の手を汚して手に入れた果実を貪ろうという発想がないのだから。
「それじゃ意見がまとまった所で行くわよ!」
香里が自分が先頭になってドアノブを握った。もう諦めたのだろう栞が(とは言っても、何をしても栞が納得できるような選択肢は存在していなかっただろうが)それの後ろに付く。さらに祐一、北川と縦列をとった。
「いい、ともかくまずは室内へ。名雪のことはその後で」
「………ふぅ」
「了解」
「サー!イエス!サー!」
一人だけ子供っぽい反抗を示したが、それを気にせずに香里がドアを慎重に開けた。そこにはもう犬はいなかった。だからといって、出来立ての人間の死体が転がっているなんて事もなかった。
4人は雷によって開いた出入り口向かって全速で(と言っても、足を怪我した栞の速度に合わせた全速で)走り抜けた。その途中で、名雪の助けを求める声がしたが、誰も足を緩める事はなかった。
まあ悲鳴と言っても、まだ致命的な状況での悲鳴でないと感じられる声だったのが、足を緩めなかった理由なのだが。何はともあれ4人は全員無事に室内とへ避難(別に室内が安全な訳ではないが、猛獣からは身を守る事は可能)する事に成功した。悲鳴はまだ続いている!
「北川君、相沢君、穴塞ぐ準備をして」
休む暇もなく香里は素早く男二人に指示を出した。北川は言われる前にその行動を、部屋においてあった長いすを動かしに走っていたが、祐一は困惑した。
「おい!まだ名雪が外にいるのに、どうして穴を塞ぐんだ!?」
「戻ってきてからじゃ遅いのよ!いいから早くしなさい!」
わけが分からなかったが、ともかく祐一は言われたとおりの行動を取るために、北川の手伝いを始めた。それを見て満足した香里は、一歩外へと踏み出した。
「名雪!もういいからさっさと戻って来なさい!」
その声は、大きく外へと響き渡った。そしてそれは名雪の耳へも届いた。
その時の名雪は全力疾走で庭を駆け抜けていた。彼女は、ずっとこの庭の中を走り続けていた。何度か室内とへ続く穴や、ガソリン貯蔵庫の前を通ったが、それに飛び込む事はなかった。前者は入ったところで塞ぐ手段がない。後者は、入るために速度を落とす事が出来なかったからだ。そして周囲は厚い原生林。彼女は唯一開けた庭をひたすら駆け回るしか選択肢がなかった。
そんな彼女の後には、先ほどから変わらぬ距離で狂犬が張り付いてきていた。陸上部員として、今まで数え切れないほど走り続けていた彼女だったが、このような状況で走るのは初めてだった。名雪は必死で声のする方へと方向転換を開始し始めた。
今まで試合に挑む時などは、それこそ命をかける思いで走ってきた。今、それがいかに甘い、安全な場所で暮らす者のくだらない考えであった事を思い知らされた。今、自分が置かれているこの状況は、それこそ正に命をかけた状況なのだから(しかも親友だと思っていた人物によって置かれた)。
今、万が一にも足を縺れさせようものなら、それは間違いなく死を意味するだろう。死にたくない!死にたくない!死にたくない死にたくない死にたくない!その思いが、限界に近づきつつある彼女の体を動かし続けていた。皮肉な事に、この時の走行速度が今までの自分の走りの中で、最も速いものになっている事を彼女は知りようがなかった。
そんな彼女の視界に、ようやくの事で目的の場所が見えてきた。そこには自分をこのような状況に追いやった親友が手を振っていた。名雪は速度を維持したまま、穴へと飛び込んだ。
「今よっ!!」
香里のその声を合図に、穴の側に控えていた男二人が、素早く穴を塞ぐ作業にかかった。長いす、そしてテーブルが穴の前に置かれた時点で、大きな衝撃がそこにかかった。猛獣がようやく追いついてきたのだった。祐一がそれらを、それこそ背中に汗を掻きならが必死で押さえ、北川はさらにありったけの物体をそこへおいやった。
それからしばらくしてから、ようやく穴を塞ぐ穴に衝撃が加わらなくなった。
「お帰り、名雪」
途中から作業に加わっていた香里が、部屋の奥で今にも死にそうな様子で大きく呼吸をしている名雪に声を掛けた。名雪は全身から汗と蒸気を噴き出し、足を痙攣させながら、このような状況に自分を追いやった人物を見上げた。
「……………」
今まで体験したこともない極限状態に置かれたうえ、これまた体験したことがないほどの肉体労働の反動だろう、殆ど意識らしき物がない状態の名雪だった。
「ゴメンね名雪。でも、他にいい方法が思いつかなかったの。でも名雪なら絶対に大丈夫だと信じていたわ」
信じる…か。だが、仮にその信じていた人物が死んでも、何ら責任をとる事はしないんだろうな。祐一はそんな風に考えていた。だが同時に、香里の行動の正しさも感じていた。
その期待をかけられた名雪の呼吸はだんだんと整ったものへと変わりつつあった。
「やれやれ…おい美坂、水瀬の奴気を失ったぞ。俺、気を失った奴なんて生まれて初めてみたよ」
北川の言うとおり名雪は気を失っていた。今まで散々鋭い観察をして皆を助けてきた北川が見立てたのだから、ただ目を瞑っているだけと言う事はなさそうだ。
「どうする?」
北川は足元で体全体を汗でじっとりと湿らせて倒れこんでいる名雪を見ながら香里に尋ねた。北川としては、このまま自分が背負って運ぶなり、ここでしばらく時間を潰すなりして、名雪を休ませてやりたいと思っていた。
「本当ならじっくりと休ませておいてあげたいんだけど…」
「了解」
香里の一言だけで全てを理解したのであろう、北川は名雪を見ながら懐に手をやった。何をする気だろうと祐一が見た北川の手の先に握られていたものは、酒瓶だった。ここに来た時に一杯貰ったキツイ奴だ。
北川は「ちょっと失礼」と断わった後に、酒瓶の口を無造作に名雪の口へ押し込んだ。そして酒瓶の角度を思いっきり天頂方向へと傾ける。どう考えても一気に口に入れるにはキツすぎる酒が未成年(それも酒なんて飲んだ事なさそうな人間)に対してどんどん注がれていく。
効果は一瞬して表れた。次の瞬間に北川の顔はアルコール塗れになっていた。当然そうなった原因は目の前の猛烈な勢いで起き上がり、さらに猛烈な勢いで咳き込んでいる少女にある。火をつけたら二人ともさぞかし派手に燃えるだろうな。一連の顛末を見ていた祐一はそんな風に考えていた。
「この精神的な傷に対する慰謝料は……誰に請求したらいいんだろう?」
よく燃えそうな顔をなくした代わりに、よく燃えそうなハンカチを手にした北川が何とも言えない表情で呟いた。名雪は相変わらず咳き込んでいる。まあ、慣れない人間にとって度数のキツイ酒は劇薬同然だから仕方がない 。
そんな名雪に対して北川は新たな酒瓶を差し出した。とは言っても中身は酒でなく水だが。名雪はひったくってそれを口にする。アレがまた酒だったら…と考えて祐一は首を振った。どうやら自分は底なしに人が悪くなりつつあるらしいと自覚したからだ。
「男なら黙って受け入れなさい」
「ちっ……相沢にやらせりゃよかった」
「………俺ならもっと上手くやったよ」
「ふんっ…取って置きの酒が半分いじょう減っちまった。家に帰ったら相沢に請求書を出すから覚悟しておけよ」
「どうして俺が?」
「水瀬に請求したら、美坂が怖い。だったらたとえ一口であろうとも飲んだ男の方に請求するのがスジってもんだ」
「無事帰れたら俺が知ってる一番いい店でおごってやるよ」
それは軽口ではあったが冗談ではなかった。もし帰れたら、自分はきっと…そうきっと以前のような人に対して素直に接せる人間に戻れるはずだ(部屋の隅でじっとしている栞を除いてはだが)。だとしたら、自分をそうしてくれた北川にはどれだけの事をしても罰はあたらないはずだ。
「そりゃありがたい。人の金や自分で稼いだ金で飲む酒は最高だからな!」
「それについては同感だ。ただし、あまり口に出すべき台詞ではないと思うぞ」
「私も便乗させてもらおうかしら」
「まあ、好きにしてくれ。どのようなモノであれ金の使い道を間違うような事にはならないと思うからな」
「だな、生還祝いキチンとしておかないと」
「最初に言っておくけど、私、外では高級酒以外飲まないようにしてるの」
「俺は一流の女ってのは、人の懐具合をよく考えてくれる分別のある者だと思っている」
「うむ、美坂は自他共に認める一流の女だな。となれば相沢の懐が大変な事になるって事はなさそうだな」
「自分の尺度で私を計ると痛い目に遭うわよ。二流の人間は、何時までたっても一流を見極める目を持てないのが相場よ」
「……わたしを無視して話を進めないでよ」
ようやくの事で劇薬の衝撃(人災と言った方が正しいかもしれないが)から復活した名雪が、バカ話をしている3人に口を開いた。彼女の表情は面識がない人間でも人目で分かるほど暗い。
「おはよう、名雪」
「香里……どうしてあんな事したの?」
「あ、あのな水瀬…美坂は」
さすがに気まずい表情になった北川が名雪に対して恐る恐る(あのどのような状況でも笑っている北川がだ)探るような声で弁護をしようとする。
「北川君は黙ってなさい」
だが、それを香里は遮った。どうも彼女は自分のやった事には、最後まで自分ひとりで(それが利己的な事ではなく全体の為だったとはいえ)責任を持つ気らしい。人としては非常に美しく、そして立派な覚悟だ。
「他に良い方法がなかったからよ」
「どうして話してくれなかったの?」
「名雪の性格からして、話した方が上手くいかないと思ったから。名雪は心の準備がない方がいい結果がでるタイプだと思ったのよ。実際上手くいったでしょ」
「どうして私だったの?」
「名雪が陸上部の部長だったから」
香里の返事はどれもスムーズに口を出ていた。それは彼女のとった行動が、彼女の脳細胞がフル活動した結果として導かれたモノだからなのだろう。祐一はそれを大したものだと思いながら見守っていた。彼の敬意は香里、名雪、両者に対して向けられていた。名雪があのような状況においやった人物に冷静に話しかけている事も感心していた。自分があのような事をされたら、例えどのような理由があろうとも冷静ではいられないだろう。そして、その事を許す事も絶対にないだろう。自分の足がそれほど高性能でない事に感謝するべきだろうか?
「じゃあ香里の方が足が速かったら、香里が私の代わりに逃げ回ってたの?」
「当然そうなるわね」
「私が…死んだらどうするつもりだったの?」
「死体にすがりついておいおい泣くわ。そして秋子さんに、自分の娘の死因が何だったかを伝えるわ。その後は年に一度の墓参りだけが名雪との接点になるわね」
なんとまあ…もっと言い様があるだろうに。祐一は心の中で大げさに手を上げてみせた。いや、もちろんいい加減な言い訳をするよりはよっぽど好感が持てるのは事実だが。横を見ると北川は、なんだか妙に嬉しそうな顔をしていた。こいつにはコレが一番と思う返答らしい。
「もう二度と…こんな事しない?」
「さぁ…また名雪の力が必要になるかもしれないから何とも言えないわ」
「だから!そうじゃなくて、何も言わないであんな事をしないって聞いてるの」
「あぁ…わかったわ。これからはちゃんと名雪の許可を取ってからする。これでいいの?」
「いい」
名雪の質問はこれで終わったらしい。ノッソリと動いて、近くの適当な場所に腰を下ろした。
「話しも終わったようだし、それじゃ行こうか。室内は通電が復活したから明かりがついているはずだ。随分楽に戻れると思うぞ」
その北川の声を合図に全員が下ろしていた腰を上げた。そして北川が先頭にその後に祐一、栞、香里、名雪の順で部屋を後にし始めた。
その一行の最後の一人、名雪がドアの淵に手を掛けた時だった。彼女の前にいた香里が足を止めた。そして振り向かずに背を向けたままに名雪に向かって声をかけた。
「名雪」
「なに?」
「いい、今回の事は私が一人で決めた事なの。だから、恨むとしたら私だけにしておきなさい。私一人だけを恨むのよ」
「……………」
「わかった?」
「別に恨んでなんてないよ」
「ともかく今私が言った事、ここから出るまでずっと忘れないでいるように」
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