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二月 命なき名誉4
「よし、荷物を無事に回収!」
北川が宣言したとおり、一行の帰り道は非常に楽だった。照明がついた事でコレと言って危険だと思われる場所(脆い床板、倒れそうな物体など)に近づかずに済んだからだろう。
そして何の問題もなく荷物の置いてあった地点にまで戻ってきていた。幸いな事に荷物が何者かに荒らされているなんて事はなかった。
「ファイトーいっぱーぁぁっ!!」
「…………何を叫んでいるんだ……北川」
「台詞の通りだ。こんな事もあろうかと荷物の中にタウリン1000ミリグラム配合の栄養ドリンクを持ってきていたのだよ」
北川の言うとおり、彼の手には日本人なら誰もが見た事がある(そして誰もがマッチョと大自然を連想する)ドリンク剤が握られていた。
「どんな自体を想定すれば栄養ドリンクを持ち歩くという結論に達するんだ。できれば説明してくれ、400文字以内で。こんな事もあろうかと何て台詞で何でも済ませられると思うな。某RPGみたいに攻撃力が二倍になるわけじゃないんだぞ」
「相沢君、少し落ち着きなさいよ。あなたみたいな人間が彼のペースに乗せられたら負けよ」
「分かってる…わかってるんだ…でも…放っておくと際限なくエスカレートしそうで…」
祐一はうなだれて、あまりに場違いな栄養ドリンクを恨めしそうに眺めるしかできなかった。
「さぁ水瀬、コレを飲むんだ。さすれば全力疾走の披露など話にもならなくなる。何と言っても登山で窮地に陥った連中を支えられるくらいの力を秘めているのだからな」
「ありがとう…。でも私だけなんて悪いよ」
「安心しろ、こんな事もあろうかとちゃんと人数分持ってきてある。だから遠慮せずに飲むんだ」
そういうと、北川は本当に荷物の中から人数分の栄養ドリンクを取り出した。
「人の話を聞けよ!こんな事もあろうかとで話を済ますな」
「そういうな。今は原因よりも結果が大事だ。とりあえず体力がつくんだから飲んでおけ」
そう言って北川は全員に小瓶を渡した。実際問題、体の方にガタが来ているのは事実だ。しぶしぶと祐一は蓋を開けて、中身を一気に喉へ流し込んだ。独特の濃い甘味が舌を焼く。他の3人もそれに習う。そして最後に北川がビンの蓋を開けた。
ドリンクが全員の胃に納まって、各々がのんびりとした雰囲気で床に座り込んでいる。空っぽになったビンを照明に照らしていた祐一の顔が僅かに歪んだ。確かに今は、バカ話をしながらこんな物を飲んでいる。だが、次は無いという事に気が付いたのだ。
考えてみれば、もう食事だって取らなければならない時間だ。何時もよりもはるかに体を酷使している(すくなくとも自分は。おそらくは名雪と栞も)のだから消耗だって激しい。いや…、祐一は考えるのをやめた。考えても仕方がない事だという結論にしか達しそうになかったからだ。
少しでも気を晴らそうと、祐一は周りの人間に着目する事にした。するとその中の一人が妙な事をしている事に気が付いた。その少女、祐一の隣に座っていた美坂栞は目は焦点が定まっていない様子である方向を向いていた。
祐一がその方向をジッと辿って見てギョッとした。栞の目がある場所から一メートルくらい離れたそこには、おそらく人間の大人の物であろう頭蓋骨が転がっていたのだ。最初に来た時には気が付かなかった代物だ。ちょうど物陰にあるので死角になっていたので気が付かなかったのだ。他の3人はまだこの事に気づいていない。黙っておくか…。この場の雰囲気を壊す必要はないと結論付けた。それに今は栞の方が気になる。
美坂栞は疲れていた。心も体も両方だ。体は今までの道筋で今までにないほどに酷使し続けられ、さらに足に怪我まで負っている。そして心には致命的にまで大きな傷を負っていた。この世で一番大切に思っていた人に拒絶され、さらに自分はいらない人間なんだという烙印を何度も押されてきた。実際に自分はココに来てから足を引っ張り続けているのだから。
もう何もかもどうでもいい気分だった。こんな自分なんていらないのだから。私なんていなければ、もうお姉ちゃんに迷惑かける事もなくなるし、北川さんに睨まれる事もなくなる。そして今自分の横にいる人についても何も考えなくてもよくなる。私もあんな風になったらいいんだ。美坂栞はそんな風に思いながら頭蓋骨を眺め続けていた。
その頭蓋骨が、一瞬だが僅かに動いた気がした。まさかと思ってじっと目を凝らしてみてみると、それが気のせいでなかった事に気が付いた。そして、気づいた時には手遅れだった。
栞が目を凝らして見ていた時に、突如頭蓋骨の中から何かが飛び出してきた。それは蛇だった。それも大きな牙をむき出しにして、空中を栞目指して高速で飛び掛ってきている。そしてその速度は、今の栞の体勢で回避のために繰り出せる速度の許容範囲を大きく上回っていた。
栞に恐怖はなかった。圧迫された精神は、目の前で起きている状況を許容していた。生に伴う苦痛よりも死の伴う無が勝利していたからだ。彼女は黙って目を閉じた。
だが、いつまで経っても痛みはこなかった。自分は動物にすら相手にされる事のない、取るに足らない存在だったのだろうか?仕方がなしに目を開けたとき、自分の目の前で起こっている事は奇妙に現実感がなかった。それは目の前で繰り広げられていた光景が、どのように考えてもありえない光景だったからだ。
目を開けたとき、自分の目の前には祐一がいた。それも、左腕から奇妙な長い紐をぶら下げている。こんな事がありうる筈がなかった。自分はこんな事をされるほど愛されてはいないのだから。自分の身代わりになって貰えるほど価値がある人間だと思われているはずはないのに。栞の脳はひたすら現実を拒絶する事しかしなかった。
目の前の祐一が、ナイフで蛇の首を切り落とし、その血が飛び散って頬にかかった時、ようやく脳が現実の受け入れを開始し始めた。目の前で起きている状況を脳が理解した時に、ついに本当の恐怖がやって来た。
館内に、今までになかったほどに大きな悲鳴が響き渡った。
「こ、コレってヤバイのか?」
祐一が自分のやった事、そしてその結果どのような事になったか気が付いたのは、自分の左腕に頭部だけになった蛇がぶら下がっているのを見た時だった。今まで疲れた顔をした筈なのに、気が付いたらこの様な状況に陥っていた。完全に無意識のうちの行動だったのだ。
「ともかく動くな!落ち着け!慌てると毒の回りが速くなる!」
素早く北川が駆けつけ、手早く腕を紐で縛った。その作業を行う彼の表情は怖いまでに真剣だ。それを見て祐一の顔が見事なまでに真っ青になった。自分の身が何に犯されたか否応無しに理解させられた。
「や、やっぱりコレって毒ヘビなのか?」
情けない事に葉の語尾震えていた。足の方にも震えが来ている。おそらく目には涙が浮かんでいるだろう。どうして俺はこんな事をしてしまったんだ、激しい後悔が祐一を襲ってきた。
「わからん!マムシでもハブでもヤマカガシでもない!日本には住んでいない蛇だ!症状が出るまで何とも言えない」
日本で自然に生息している毒蛇は北川があげた3種しか存在しない。だが人間が持ち込んだモノなら多数存在する。今回祐一を襲った蛇もその一部の可能性は充分にある。むしろこんな状況なら、そうでない方が不自然に感じる事だろう。
「苦情なら後でいくらでも聞いてやるから、今は我慢しろ」
そう言いながら、北川は祐一の持っていたナイフの刃をライターの炎であぶりだした。その後、懐から酒のビンを取り出し患部を消毒する。そしてナイフを使って、傷口の辺りを浅く切り裂いた。
「っっ!」
苦痛に顔をゆがめる祐一。だが北川はそれに構わずに傷口に口を付けて思いっきり血を吸い出した。それを何度か繰り返した後、自分の口を酒でゆすいだ。その後に斬った傷口を縫合して包帯を巻いた。
「相沢、気分はどうだ?」
「さ、さ、さ、最悪だよ」
「そうじゃない。いいか、もしコイツが毒蛇だったら遅かれ早かれ症状が出る。神経毒なら体の何処かがマトモに機能しなくなる。出血毒ならとりあえず患部がはれたり痛んだりする。さらに嘔吐したりする。いいか、何か異常を感じたらすぐに言え!」
「そ、その、時は死ぬんだな」
「いいか!毒蛇に咬まれたからって誰もが死ぬわけじゃない。血清を打たなくても助かる事だって多い。ともかく今は気を落ち着けて何も考えるな」
このような状況の原因を作った張本人、美坂栞はこの様子を涙を浮かべてみていた。悲鳴をあげていたのは最初だけで、直ぐに香里に押さえつけられた。
最後の一人、名雪はと言えば、何をしたらいいか分からずに辺りを行ったりきたりしているだけだった。騒がないだけマシだと言えばそうだが。
それから間もなく祐一の傷口が痛み出した。それも先ほどまでの斬られた事による熱い感じではない。激痛というより他のない痛みが、幹部を中心に広がり始めたのだった。
祐一が包帯を外した場所はまるでヤバイ病気にでも罹ったかの様に黒ずみ腫れていたでいた。その患部は数ミリ単位で膨れ上がっている。明らかに、ただ傷を負っただけでは表れない症状だ。
「は、は、は、やっぱり駄目みたいだわ……俺」
傷を見つめる祐一の目は、誰の目から見ても正気の光を失っていた。もう自分が死ぬしかないと思い込んだ、あらゆる希望を捨てた自暴に染まった瞳だ。
「大丈夫だ!まだ死ぬと決まったわけじゃない!とりあえず気を静めろ!」
「ご、ごめんな北川、色々やってもらったのに全部無駄になっちまった。俺、本当にお前に感謝してるよ。本当に、本当に、本当に、か、感謝してるよ。でも、俺、死ぬみたいだから、北川のしてくれた事、全部無駄になった!俺、死にたくないよ!こんな所で死にたくないよ。でも、でも、でも」
「だから!落ち着け!まずはゆっくりと休める場所まで行くぞ!そこで何とかしてやるから!」
もう祐一は完全に正気を失っていた。支離滅裂言葉を口にし続けている。な暴れださないだけマシだが。だがそれも何時までもつか分かったものではない。
「ふんっ!!」
祐一の声を掻き消すかのように、大きな掛け声が響き渡った。それはそれまでずっと黙っていた香里の声だった。その声と同時に、祐一のみぞおちに香里の拳がめり込んだ。
「〜っ!!な、にを!?」
「黙れ、この根性なし!!」
それはさらに二回、三回と続けられる。人体急所に何の手加減もない拳(それも体重を乗せた見事な動作で)がめり込んだ祐一は、完全に動けなくなっていた。腹を押さえて、もう声を出す気力もない様子だ。
「あ、あの美坂さん何を?」
見かねた北川が必死の思いで祐一と香里の間に割り込んだ。その事でようやく祐一は鉄拳から逃れる事はできた。とは言っても、もう充分以上の鉄拳を浴びた後だからどれだけ意味があるかはわからないが。
「このまま五月蝿いのを放っておいたら、何が寄ってくるか分かったものじゃないから、気絶させようとしてるのよ。わかったらどきなさい。この根性無しはまだ生き…気を失ってないわ」
「無理!そんなの素人には無理です!どうしてもやりたいならスタンガンでも使ってくれ!」
「……そういう事はもっと早く言いなさい」
「そんな隙をくれなかっただろうが!」
「ともかく、今は相沢君を落ち着ける場所に連れて行けばいいんでしょ。だったら最初の方に入った部屋に毛布があったわ。そこに行きましょう」
「あ、ああ。じゃあ俺が相沢を背負う」
「そう。じゃ、私は栞の面倒を見るわ。名雪、悪いけど荷物持ちを頼めるかしら?」
「あ、う、うん」
今までの様子を香里に押し付けられた栞と一緒に見ていた(それも怯えた様子で)名雪は、その言葉に反応して急いで荷物に飛びついた。
北川は今だに声すら上げられないでいる祐一を背負い、香里は栞の肩を抱いて足を踏み出した。
「思ったより重いな…コイツ」
「なに少女漫画みたいな事言ってるのよ。しっかり運びなさい」
「美坂、それは違う。少女漫画だったら「お前軽いな…ちゃんと食ってるのか」とか言うのが定石だ」
「その意見の是非はともかくとして、北川くん、少女漫画読んでるわけ?」
「面白ければ」
そんな、死にかけた人間を運んでいる最中だとは思えない会話をしながら一向は先へと進んでいた。二人の性格を考えれば、暗い気分を払拭させるために態々このような会話を選んでしていると考えるのが自然だろう。
なんと言って、運ばれている祐一は、もう人生あきらめ状態に入りつつあるのだから、暗い会話をするわけにはいかない。病は気からと言うが、気があれば助かるかどうかは分からないが、無ければ死ぬのは確かなのだから。
「き、た、がわ…」
「もう少しだ。我慢してくれ」
「おろ、して。気持…悪い」
そう言う祐一は全身から汗を噴き出していた。おそらく毒の影響で発熱が進んでいるせいだろう。毒に犯された人間がどうなるかのを知っているのか、北川は祐一を降ろしてその背中をさすり始めた。
効果はすぐに表れた。うずくまった祐一は、苦しそうに胃の中身を吐き出し始めた。とは言っても、殆ど食事など取っていないのだから、出てくる物は胃液ばかりだったが。
その様子を見ていた北川は誰にも聞こえない小さな声で呟いた。こりゃヤバイな。
「よし、もう終わりだな。じゃあもう一度背負うから捕まってくれ。ん、そうだ。よし、じゃあ動くぞ」
病人(と呼べばいいのだろうか)祐一を優しげに見ながら、北川は立ち上がった。そして背中から前に顔を向けた時、その表情はまったく別のものへと変わっていた。今までからは考えられないような余裕のない表情に。
その一部始終を見ていた香里は、祐一の背中を見ながら小さくため息を吐いた。祐一を見る表情は、不治の病に犯された人間を見るようなものだった。
それから、運がいい事に何の問題も無く目的の部屋までたどり着いた。すぐに香里が物の山の中から毛布を引っ張り出し、それを床に引く。北川がその上に祐一を寝かせ、毛布を被せた。
その間祐一はされるがままだった。もう体を動かす気力も無いようだ。香里が汗ばんだ額に手を乗せてみると、驚くほど熱い。
「このままじゃ脱水症状になるな。それに熱も酷い」
「どうすればいいの?」
「とりあえず水がいるな。台所行って取ってくる」
幸いにも台所がすぐ側にある。そこに行けば水はいくらでも手に入る。それがあれば、飲用にも、冷却ようにも使用することができるだろう。
「私も行くわ。名雪、相沢君の事よろしく」
「よ、よろしくって、な、なにをすればいいの?」
狼狽する名雪。それもそうだ。毒に犯された人間の面倒の見方なんて学校でも日常生活でも必要ない知識だ。この名雪の態度を責めるわけにはいかないだろう。
「手でも握って励ましてあげなさい」
それだけ言うと、二人は振り返らずに部屋を出た。部屋を出てしばらく、最初に口を開いたのは香里だった。
「で?」
「で、とは?」
「相沢君はどうなるの?私は別に彼の恋人でも身内でもないから、真実を包み隠さず話しても問題ないわよ」
「んなもん、言わなくて分かってるだろ」
「いいから言いなさい」
「言いたくない」
「あなたの意思はどうでもいいの」
「ちっ…」
北川は懐からタバコを取り出して口に咥えた。そして何度もライターの着火に失敗した後、それに火をつけた。二度三度煙を大きく吸い込んだ。それが彼にとっての平静でいる為の儀式らしい。
「それで、どうなるわけ?助かるの?」
「死ぬよ」
それを聞いた香里はしばらくの間目を瞑り、何もない天井に顔を向けた。それは10秒ほどで終えられた。
「その意見に訂正の余地は?」
「無い。キチンとした根拠に基づいて導き出した結果だ」
「そう…で、相沢君はいったいどんな風になってるわけ?」
「聞いてどうなるモノでもないぞ」
「いいから」
しかたない、北川は口の中でそう小さく呟いてからタバコをふかした。香里は北川の懐から勝手にタバコの箱を取り出して、自分も一本咥えた。
北川はそれを咎めることなく、黙って自分の咥えているタバコを、香里の方へやって火を渡した。香里がタバコの最初の煙を吸ったのを確認してから話を始めた。
「あの毒の症状は…、マムシなんかに咬まれた時の症状に似ている。が、効き目が段違いだ。咬まれてほんの数分であそこまで症状が出ている。患部の腫れ、痛み、発熱、嘔吐。そのどれもが恐ろしい速度で相沢の体を蝕んでいる。さっき嘔吐した時、吐瀉物の中に血が混じっていたから、たぶん内臓系統が毒で内部出血を起こしている。時間が経てば筋肉なんかもどんどんやられていくだろうな」
「対策は?」
「一番良いのは血清。でも咬まれた蛇がわからないんじゃどうしようもない。だいたいあそこまで酷い症状だ、今から打っても後遺症が残る。それに…今からこの屋敷を出られたと仮定しても、かかる時間を考えれば相沢は助からない」
「咬まれた腕を切り落とすのは?」
「最初は考えたが、あそこまで症状が進むとな…。だいたい切り落としたとして、今度はその傷で死ぬ。出血多量か、傷口から腐って死ぬか…」
そこで北川は言葉を切った。これ以上話す必要がない事柄だと思ったから。それから沈黙が続いた。二人とも黙ってタバコをやり続ける。
そして両者の咥えたタバコが全て灰になったところで、香里が口を開いた。
「これからの行動について、私の意見を聞いてくれる?」
「どうぞ」
「1・偽善と分かっていても相沢君を連れて先へ進む
2・相沢君をあの場所に置いて先へ進む。
3・相沢君の苦しまなくていいようにする」
「1は論外だな。だがな…」
2はどう考えてもあと味のいい行動じゃない。3は…やるとしたら自分だろう。だがそれが自分に出来るとは思わなかった。それが慈悲になるかもしれないとわかっていても。
「北川君、選びなさい」
「………最悪な二者択一だな。今までの人生で最悪の展開だ。しかもその相手が相沢だものな」
「そうじゃない。相沢君をどうするかを決めるか、その事を残り二人に伝えるかを。ただし伝える時は、自分が選択した事にしておく事」
「素晴らしいな…最高だよ。どちらも充分以上に傷つく。後腐れなく平等に嫌な思い出に一生不自由しないで済みそうだ」
「そうね」
「多分この先顔を合わせるのも嫌な関係になるだろうな。会うたびに今日のことを想いだす事になるだろうから」
それだけ言うと、北川は手にしていた吸殻を地面に投げ捨てた。そしてしばらくの間、それをじっと見続けた。
「俺は…」
「先に言っておくけど…両方引き受ける、或いは両方とも拒否するって言うのは却下だから」
「……嫌な事を言うね」
「いい、この期に及んで余計な事を考えないように。大人には大人の義務があるの。子供たちに恨まれる役を引き受けるか、大人としての義務を果たす役割を引き受けるか、今この場にいる事の義務を放棄することは許さないわよ。お互いに責任を果たしましょう」
「クールだねぇ…。俺には真似できそうにないよ…。俺、美坂のそういう所が大好きだぜ。それが理由で惚れたと言ってもいい」
「そう…………私は嫌でしょうがないわ。ホント…いっそ泣けたら楽なのかもしれないわね」
それからしばらくの間沈黙が続いた。
「嫌だな…嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ何で俺が美坂にこんな事をさせなきゃならない!俺は必要なら人殺しだって何の躊躇も無く出来る!馬鹿な事をするのだって自分の楽しみのためだ!俺をバカにする奴がいたら絶対にほうっておかない!自分の気に食わないことは何一つやってやるもんか!それなのに!何で俺がこんな事をしなきゃならない!何で美坂に不愉快な思いをさせなきゃならない!」
「…そんなに嫌だったらもう考え込むの辞めたら」
「ああそうだな。相沢の台詞を借りるなら、その辺の割れ目にでも飛び込むか、刃物で首を掻っ切るかすればそれで全部辞められる!楽だろうな!嫌なことやらずに済むんだ!それ以上に楽なことなんてあるものか!バカな奴ほどそうしたがるだろうさ!美坂!美坂は俺にバカになれと言うのか!バカらしい!なれるものか!バカになんぞ死んでもなるものか!やらなきゃならないんだよ!不愉快な事を決めて実行しなきゃならないんだよ!」
「それが大人ってものでしょ。よく分かってるじゃないの」
「だいたい何で相沢の奴が死ななきゃならない!あいつが!アイツが死ななきゃならない理由なんて何一つ無い!」
周囲に大きな音が音が響き渡った。目の前にあった壁に大きな鉈がめり込んでいる。北川が腰にしていたソレだった。
「クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!」
「気は…すんだ?」
香里が錯乱した北川に声をかけたのは、北川の目の前の壁の原型がわからなくなったあたりだった。
「……………すむわけがない。親友を…少なくとも俺はそう思っている奴を見捨てて、惚れた相手に余計な事を押し付けるなんてな。でも………現実を受け入れる準備は出来た」
その言葉で、北川はようやく振り回して鉈から手を離した。乾いた音を立てて地面に落ちた鉈は、あれだけ乱暴に扱われたにも関わらずほとんど傷がついていなかった。或いはそうならないように本人がそう使ったのかもしれないが。
「随分と暴力的な現実認識の儀式だったわね。それで、北川くんはどういった選択をするの?」
「………少し考える時間をくれ。今すぐには…無理だ。いくらなんでもコレばかりはすぐには決められない」
「優柔不断」
その言葉を聞いて、北川はわざとらしく大げさに額に手をやって俯いた。
「何とでも言ってくれ。今だけはそう言われても仕方がないと思っている。普段なら、美坂にそんな事を言われた日には首をつりたくなっているだろうがな」
「よく言うわね。他人の食料分捕ってでも生き延びそうな男が…」
「サルと人間、どちらにも同じ接し方をする必要もないだろう。猿に対して遠慮するような奴は馬鹿だ。馬鹿は馬鹿に相応しく、馬鹿な死に方をすればいい。それで他人に馬鹿にされるのさ。ま、本人はそれで満足なんだろうがな。ともかく、他人がどうなろうと俺は知らない」
「動物愛護集団が聞いたら寡黙なスナイパーを派遣されそうな言葉ね。他所では言わない方がいいわよ」
「あの手の連中は知識はあっても知能はない。動物愛護なんて贅沢を言えるのは、自分がその日のパンに困っていないからだって事すら知らない連中だ。………話がそれたな」
気が付いたかのように、北川は地面に落ちていた鉈を拾った。香里も適当な場所に腰を下ろした。
「そうね…他所の馬鹿けなすよりも、まずは自分たちの心配をしないと。そもそも私たちはなんで部屋の外にきたのかしら?もちろんそれは子供たちの目から外れるための口実に過ぎないわけだけど…」
「死に行く相沢に対して最後の偽善をする為にやってきたんだよ。俺たちは台所まで水を取りに出てきたんだ」
「そうだったわね。それじゃあ用事を済ませに行きましょうか」
そこから台所はすぐ傍だった。二人は台所で適当な容器を使って水を確保。ついでに台所中をあさって色々と今の状況で使えそうなモノを物色した。
戻ってきた時には、祐一の容態はさらに酷い状態になっていた。全身から大量に汗を噴出し、体は小刻みに震えていた。そして傷口は倍ぐらいにまで青く膨れ上がっていた。荒い呼吸に混じってたまに小さな悲鳴のような声だけが、祐一の外部へ示せる意思表示だった。
「タバコ…吸うか?」
「いら…ない」
「そうだった。相沢はタバコはやらんもんな。俺から言わせると人生の楽しみの一割を自ら放棄しているようなものだが。まあ女がらみだったら俺もそうするか。だったら酒飲むか?」
「いい…」
「そうか。じゃあ取りあえず水飲め」
北川は祐一に水を飲ませ、額に濡れたタオルを乗せてやった。祐一を見る北川の顔は、半分泣きそうな物だった(もちろん他者から見られない時だけだったが)。
その作業が(北川に言わせるなら偽善)一段落ついたところで、香里が皆に向かってこう言った。
「悪いけど、ちょっと相沢君と2人っきりで話したい事があるの。少しの間、皆に席を外してもらいたいんだけど。よろしいかしら?」
ソレに対して、北川はさっさとドアの外に出る事で返答をした。
「え、え、え?」
名雪はしばらくどうしたらいいモノかと右往左往した後に、結局北川の後へ続いた。もう自分の意思でモノを考える能力が低下しているようだ。
「香里…一体何をするつもりなんだろう?」
ドアの前に待機していた北川に向かって、名雪は尋ねた。
「………さぁな…何にしても愉快な話題じゃないのは確かだろうな」
部屋を出た早々にタバコを口にした北川が、それに火をつけながら返事をした。火をつけ終えると、中の会話が漏れてこない位置にまで足を進めた。
俺も出来るだけ冷静でいたつもりだが、内心相当イライラしているらしい。とうとう空になったタバコの箱を握りつぶしながら北川はそう思っていた。普段なら考えられないペースで(もちろん自分で全部吸ったわけではないが)タバコを食っている。まだ予備は持っているにしても、このペースで吸うなら、後々面白くない事になろうだろう。それもこれも全部あの女のせいだ。
その問題の女が未だに留まっている部屋のドアをじっと見る北川であった。そこに殺意が篭っていたのは仕方が無い事だろう。
「栞、悪いけど栞にもちょっと席を外して欲しいの」
最後まで部屋に残っていた栞に向かって香里が言った。
「おねえちゃん…わたし…わたし…」
2人が出ていた後の栞は泣きそうな顔をしていた。いや、もう目には涙が浮かび始めている。そんな栞の涙を拭いた香里は、優しく栞を抱きしめた。
「栞の言いたいことは分かってるわ。少なくとも分かったつもりにはなってるから。あなたは精一杯やってると思うわ。だから出来ない事は他の事は私に任せなさい。私は美坂栞の姉なんだから。今は何も言わないで席を外して」
その言葉を聞いて栞はとうとう泣き始めた。心のたがが外れたかのように思いっきり大声で泣いた。香里はそれが納まるまでずっと目の前の妹を抱きしめ続けていた。
ようやく涙を抑えた栞は、香里に付き添われて部屋を出て行った。残ったのは毛布に寝かされた病人と、先ほどまでとは打って変わって悲しい顔をした香里だけだった。
「ごめんなさい。病人の前であんな見苦しいモノを見せて」
香里は2人っきりになった祐一の側に腰を下ろすとそう言った。
「……お」
「……無理して喋らなくていいわ」
香里は祐一の口に軽く指を当てて言葉を遮った。そして喋るのを止めた祐一の汗をふき取った。
「……まずはお礼を言っておくわね。栞を…妹を助けてくれてありがとう」
「………」
苦しそうな顔に、ほんの僅かだけ疑問の表情をうかべる祐一。あの時の事は自分達以外誰も見ていなかったはずだ。そして、栞がそれを話したことは無い。
「別に見てたわけじゃないの。相沢君との付き合いはそれほど長いという程でもないわ。でも、私は栞が生まれた時から一緒にいるの。あの子が何をして、何をされたかの想像はだいたい思いつくわ」
「別に…すきで…やった…わけじゃない」
それは祐一の本心だった。すくなくとも自分は命を捨ててまで栞の事を助けたいと思った事は一度も無い。自分が命を捨ててまで助けたいと思う相手はこの世に一人だけなのだから。それなのにあんな事をしてしまった。達成感も、満足感も、喜びも感じてはいない。ただひたすら後悔だけが心の中にある。
「それは知っているわ。あの子が相沢君をどう思っているか、相沢君があの子をどうおもっているか。全部知っているなんて言うつもりはないけど、ある程度の事はわかっているつもり。だから……もう一度お礼を言わせて。栞を助けてくれてありがとう。そして…本当にゴメンなさい」
香里は今まで他人に見せた事のないだろう顔で深く頭を下げて謝罪をした。それを見て祐一は驚いた。
「相沢君が自分で納得した上であの子を助けてくれたならお礼だけしか言わない。謝るなんて侮辱になることはしないわ。でも相沢君は望んでやったわけじゃないのよね。ただ反射的に栞を助けてしまっただけ。あの子が何もしなければ相沢君はこんな事にならなかったのに…。本当なら相沢君の代わりに私が今この場で今にも死にそうな顔をして寝転がっていなくちゃならなかったのに」だからこの事にもお礼を言わせて。あの子を責めないでくれてありがとう」
それは違う。俺が栞を責めなかったのは、そんな事をする余裕がなかったからだ。そう思ってもさすがに口にはださない祐一であった。
「だから…相沢君、あの子を最後まで責めないであげて。あの子はまだ子供なの。自分がやっている事の意味もよくわかっていない、自分のした事、自分の口にした事には責任を持たなくてはいけない事を知らない子供なの。そして一番に子供な点は、相沢君には相沢君の考えがあって、相沢君がしなくてはならない事がある点を理解していない事。その点が分かっていないから、相沢君に裏切られたなんて思い込む事になるのよ。人に何かをしてもらう事この意味をわかっていない本当に馬鹿な子よ」
その声は、もう痛みや寒気ばかりが先行する祐一の感覚器官に弱弱しく響いた。そして苦痛ばかりを表現する事に熱心な脳は、その言葉の意味を理解するのに多大な努力を要した。
「そんな栞を責めないでなんて、自分でもどれだけ都合のいい事を言ってるか、わかってるわ。でも、相沢くんはもうすぐ死ぬの。そしてあの子はまだ先があるの。あの子が相沢くんに八つ裂きにされても文句をいえない事をしたとしても、私はあの子に死に行く者の道連れにはなって欲しくない。そんな事は私が許さない。私はあの子を守らなくちゃならない。もう二度とあの子を見捨てたりしない。だから相沢くん、あなたがどんな風に考えていようが栞を傷つけさせる事はさせない。もしそんな事をすると言うなら、私は相沢くんを殺さないといけない。でも、相沢くんがあの子を許してくれるなら、その私が栞の代わりになるから。栞がやらなきゃならなかった事は全部私がするから!お願いだからあの子の事を許してあげて!」
香里は祐一の手を握りながら頭を下げていた。だから祐一には彼女がどんな表情をしているかはわからなかった。ただ、握られた手から絶え間なく伝わってくる振動から、おおよその想像はついた。
だが祐一には香里の顔が見えない事も、握られた手からしかその心を探れない事もたいした問題ではなかった。もうそんな事はもう自分にとっては周囲を構成する要素にしか過ぎなかった。だから本当に問題になる事だけ、自分の世界の問題だけを口にする事した。
「いいよ…どうで…も…いい。今更……栞がどうこう……なん…てど…うでもいい。死ぬんだろ…俺。助から…ないんだろ。じゃあ………いいよ。全部………香里の…言うとおりにする…よ」
言葉をするたびに体中が痛んだ。口から息を吐くと、息を吸うと肺が痛んだ。喉が痛んだ。視界が狭い上に悪い。体が動かない。音も聞こえにくい。香里に死ぬと宣言された事が何の異議もなく受けいれらる状態だ。だから、おそらくこれが自分の生涯最後の言葉になるだろうなと思いながら祐一こういった。
「相沢くん」
「何も喋らないから。残った時間は楽しい事だけ考えているから。今までの楽しかった事だけを考えているから。だから…もう…俺の事は放っておいてくれ。喋ると体中が痛いんだ。もう黙るぞ」
ああ……俺って奴は。もう……カッコいいんだかカッコ悪いんだかさっぱりわからない(少なくとも俺には)言葉だ。本当に俺って奴は…馬鹿って事だけは確実だな。
「相沢くん……ごめんなさい。相沢くん……ごめんなさい。あの子がいなかったら…私がいなかったら…ごめんなさい…ごめんなさい」
強気に出るのか下手に出るのかハッキリして欲しいな…。そうじゃないと…俺も…
「嫌だ…死にたくない…まだ…やりたい…事がある!」
もし体の自由が利いたらもっと叫んでいただろう。俺は絶対にまだ死にたくない。死にたくないんだ!まだやり残した事が沢山ある。そしてそれ以上に死ぬのが怖い!怖い!死ぬのは怖い!一人で死ぬのは嫌だ!嫌だ!会いたい!舞に会いたい!一人は嫌だ!
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」
ああ畜生!あの香里が泣いてるよ!あのまま黙っていりゃ良かったのに!どうして!?どうして俺がこんな目に会わなくちゃならないんだ!?
祐一が色々な意味での人生の修羅場を味わっていたその頃。部屋から追い出された3人も、修羅場から逃れられた故の安楽を味わっていられたわけではなかった。燃える要素はいくらでもあった。そしてそれに火をつける火種になったのは北川だった。
「退屈だな…」
「香里なにしてるんだろう?きっと私には見せられないような事を祐一にして、祐一を治してるんだろうね」
そういう考えが子供なんだよな。北川はそう思ったが、何も言わずに心の中でため息をつくだけに留めた。この期に及んであの症状の相沢が助かると思い込める精神構造に、ある意味では羨望を覚えた。絶対に自分に欲しいとは思わないが。
「ま、そんなとこだろうな。しかしまぁ…こんな時に馬鹿話をして盛り上がる気も起こらないな…」
「そうだね」
「………」
「………」
「おい水瀬」
「何、北川君?」
「受け取れ」
簡潔にそれだけ言うと、北川は手にしていた何かを親指で弾いた。軽い金属音が響いた後にそれは吸い込まれるように名雪の手の中へ吸い込まれていった。
「500円玉?」
名雪は不思議な表情で、自分が渡された物体の名前を呟いた。不思議に思うのも無理はないだろう。現金、こんな状況で渡されるなんて場違いも甚だしい物体だ。あって邪魔になる事はあっても役に立つ事はまずない物だ。
「これが…どうかしたの?くれるの?」
北川は返答の代わりに懐から取り出した何かを投げた。それはゆっくり放物線を描いて名雪のほうへと飛んでいった。
「わっ!」
突然の事に慌てながらも名雪はそれを両手で受け止めた。渡された物を見てみると、今度は500円玉の親分、財布だった。
「何?わ、私、北川君にお金を貰うような事した?」
渡された財布はそれなりの重みと厚みがある。自分が何故このような物を渡されたのかまったく分からない名雪は狼狽した。
「これからお金を貰うような事をしてもらおうと思っている」
「私に出来る事ならするけど……友達からお金なんてとらないよ!」
慌てて名雪は渡された財布と500円玉をつき返そうとした。が、北川はそれを手で遮った。
「水瀬はそれでよくても、俺はそういう気分にならない。まぁココにいる間は預けておくから、気が向いたら取ってといてくれ」
「最初に500円玉を渡したのに意味はあるの?」
「別に意味はない。一度ああいう風にコインを渡してみたかっただけだ。ともかくだ、水瀬はこれから起こる事を見てみぬ振りをしてくれればそれでいい。報酬として財布から好きなだけ金を取ってくれて構わない。ともかく見てみぬ振りをしてくれ。帰還は俺の葬式が終わるまでの間。OK?拒否権は与えないから返答はまたない。我ながら酷い話だと思うが、もうそんな余裕がなくなってきた。その為に金を渡した、好きなだけ使ってくれ。もう始めるからな。それじゃあ言ったとおりにしてくれ。よろしく」
「き、北川君!」
どう考えてもこれから穏便でない事をすると宣言された名雪は焦った。今この場で北川が秘密にしておきたい事、その中でも自分に関わらない事での対象は一人しかいなかったからだ。
「美坂妹……後顧の憂いは断ったから少し俺の話につきあって………水瀬、なんだ?」
「………」
「俺はこれから美坂妹に大事な話があるんだ…」
「駄目だよ…」
「おい…」
「駄目だよ……北川君が栞ちゃんに何を言おうとしているかわからないけど……今は…ここでは…駄目だよ」
北川の肩に添えられた手から小刻みに震えが伝わってきた
「ちっ……」
北川は小さく舌打ちをした。女ってのはズルイ。例えそれが自分の弱点となるような女でなくても、こんな風にされたらどうしようもないじゃないか。男なら手を掴んでそのまま投げ飛ばせばすむのに。だが…
「……今は、って言ったよな。逆だよ。今言わないと駄目だ。今言わないと、この馬鹿女は一生のうのうと生きていく事になるからな」
「駄目だよ…駄目だよ…」
「水瀬…たとえどれだけお前が止めてもな…俺にも譲れない事があるんだ。俺は友達をあんな目に合わせた奴を目の前にして黙っている事なんてできない。相沢は俺の一番の友達だからな。それに、もし俺が同じ事になったら、アイツだって同じ事をしてくると思う。だからなお更止めるわけにはいかな。…放せ、邪魔するな。黙って財布の中身で数えていろ」
名雪はその声を聞いて手を放した。だが手を離した直接的な原因はそれではなかった。目だ。名雪が見た北川の目には明らかな狂気が宿っていた。それは、いま自分達がいるこの狂った世界に属する者達が持っているような瞳だった。
「いい子だ。賢しいのはいい事だ、余計な事で怪我しなくて済むからな」
手を放された事で北川の目に宿っていた狂気は消えた。もっとも彼のそれは演技で宿したものにすぎなかったから消えているのは当然の事だった。
保身を考える奴を相手にする時は選択肢が選びやすくて良い。ちょっと怖がらせればそれで済むのだから。だが、これで水瀬は俺との付き合いを考えなおす事になるだろうな。大切な友達だったのに。ああ、ちくしょう!それも全部目の前のこの女のせいだ!普段の俺ならもう少し穏便な方法で水瀬を引き下がらせる事が出来ただろうに!
俺が水瀬に怖がられているのも、そんな精神状態に俺を追い込んだのも、何よりこんな事をしなくてはならない状況を作ったのも……全部この女のせいだ!
「さて…外野も引き下がってくれた事だし、今度こそ俺と一緒に楽しい話をしようじゃないか…美坂妹」
鏡が見たかった。仇を手中に収めた復讐者は今の俺のような顔をしているんだろうか?北川はふとそんな事を考えた。
北川は栞との間合いを詰めていき、栞はそれに押されてどんどん身を後方へと下げていく。そしてある程度のところで栞は壁際までに追い詰められた。とどめに逃げられないように、顔の両脇にある壁に腕を添えられた。
「おめでとう」
「…………」
身を縮めた栞に北川が掛けた声は祝辞だった。いきなり罵倒される事を想像していた栞はこの展開に少し慌てた。それはこれから先に自分の前にやってくる出来事に対して不安を増大させた。
「おめでとう美坂栞」
「…………」
北川の表情も声も優しかった。何も知らない者がその光景を見たとしても、それは少女に対して祝辞をあげているようにしか見えないだろう。だが、事情を知っている名雪の目には、それが猛禽が獲物を前にした時の行動にしか見えなかった。
「本当におめでとう美坂栞」
「……そんな嫌味を言わないで…早く本題に入ったらいいじゃないですか!」
「ふん…まだ吼える気力が残っていたんだな。まあ貴様は吼えるだけで後は何もしないんだろうがな」
相変わらず北川の表情も声も優しげだった。だが、栞は優しい声と表情にも殺気を込められる事を身をもって味あわされた。
「…………」
「で、だんまりか。まあいい。貴様がどう思おうが勝手だがな、俺は心のそこから君のバラ色の未来を祝っているつもりだ」
「どこが…どこがバラ色なんですか!?祐一さんは私の代わりに…」
「そう…それだよ。美坂栞にとってこれほど素晴らしい展開はないと思うぞ」
「……どうして…祐一さん私のせいで苦しんでいるのに…」
「そうだな…本当に全部お前のせいだよ、美坂栞。お前がいなかったら相沢はあんな目にも遭わなかったし、俺が庇ってやれる範囲でしか危ない行動をしなかっただろうな」
「………」
「まあ相沢が何をしようが、俺が文句を言うべき事じゃない。アイツが決めた事だ。アイツが最後まで代価を払うのは仕方がない…。自分の決断の責務を負うのは人として最低限のマナーだ」
「……それで……祐一さんが決めた事で……どうして私が幸福になるんですか?」
「…本当にわからないのか…それともわからない振りをしているのか?…10秒待ってやる。その空っぽに近い頭で少し考えてみろ。俺が、どうして、美坂栞が、幸福だと、思うのか?さあ考えるんだ。そろそろ怒鳴り始めそうなんだ…俺を怒らせないように真剣に考える必要があるぞ」
10秒経っても返答はなかった。それを確認した北川はどこか失望したような、あざ笑うような表情をしながらこういった。
「……判らないのか。そうか。じゃあ親切な俺が丁寧に説明してあげよう…。聞き逃さないように集中して聞くんだぞ」
そう言うと北川は退路を塞いでいた両腕を離して距離をとった。
「美坂栞、君の大好きな相沢祐一君は最後まで自分の方を振り向いてくれませんでした」
それを聞いた栞は北川を思いっきり睨みつけたが、そんなモノを意に介する北川ではなかった。そもそもそれを圧倒するほどの殺気を放っていたのだから当然だ。
「何故なら祐一君にはすでに愛した女性がいたのです。まあそれ以前に、美坂栞個人の魅力で相沢祐一の心を奪う事はできなかったでしょうが。彼女は祐一君の気持ちを全然理解してあげていなかったのですから当然でしょう」
その言葉は栞の忍耐を超えるボーダーだった。気が付いた時、頭の中が真っ白になったと同時に体が動いていた。今まで祐一を助けるのに殆ど貢献しなかった体が、同じ人間たいして牙を剥いた。
拳が北川に向かって放たれる。そのままいけば北川の顔にそれがめり込んでいた事だろう。だが気づいたときには視界が激しく動き、最後には薄暗い天井が目の前に広がった。
「北川君!!」
自己保身の為に傍観者に徹していた(さすがに財布の中身を数えたりはしなかったが)名雪が、さすがに黙ってみてはいられずに声を上げた。彼女は北川が拳をかわし、更に腕を掴んで思いっきり床に叩きつけたのをハッキリと確認していた。
「騒ぐな水瀬。大丈夫だよ…手加減したからダメージはない。……それをする為にかなりの忍耐が必要だったがな」
北川は栞を起き上がらせ、床に座らせた。座らせたのは、自分のされた事にショックを受けた栞が、立っていられるような精神状態になかったからだ。
「…人に手を上げるときは反撃される覚悟をしてやるもんだぞ。良かったな…貴様が美坂の妹で。もしそうじゃなかったら投げと同時に肩の関節を外してたぞ。もちろん追い討ちで鳩尾に踵が入ってたぞ」
さも嬉しそうにオーバーアクションを取る。それを見た栞はもう抵抗する意志を完全に奪われていた。
「さて続きだ。でもどうした事でしょう?その祐一君は自分の命と引き換えにしてなんと美坂栞の命を救ったのでした」
命の引き換えの台詞を聞いて栞が狼狽した。
「祐一さんが…死ぬ?」
「何だ…まだ相沢が死なないとでも思っていのか?本当に現実に対して願望ばかりを押ししつける女だな…。学習しろよ、そこが相沢の気にさわったんだぞ」
これまたオーバーアクションでそれに答える北川。そして口の中で小さく「馬鹿につける薬はないな」と呟いた後で話を戻した。
「こうして美坂栞の初恋の人…かどうかは知らんがその方が話が盛り上がるからそうしておこう。初恋の人は彼女の心の中に一生最高の人として残ったのでした。生きていたとしたら憎悪の対象にしかならなかった人が、死んで英雄となったのです。それも至高の英雄に」
「そ…」
栞がそれに対して何か言おうとしたとき、北川はその口をすばやく手で塞いだ。そして表情で、まだ話は終わってない事を納得させる。もちろん納得しなければ手に思いっきり力が込められるだけの事だが。
「そんな事はない?いや、そんな事はあるな。美坂栞、胸に手を当てて考えてみろ。相沢祐一が自分以外の女と一緒にいる様を。そしてその時に自分には絶対に向けない笑顔をしている様を。それで愉快な気持ちや相沢を祝ってやりたい気分になったか?なる?いや、ならないな。なったなら、今現在、美坂栞はこんな風に俺にいびられて怖い思いも不快な思いもせずにすんでいるはずだからな」
「ぅ…!ぅっ!」
「おっと失礼、苦しかったか?でも、まあ今の相沢の置かれた状態に比べれば塵芥に等しい程度の苦痛だから勘弁してくれ」
「もう…やめてください…わたしは…わたしは…」
「それ以上口を開く必要はないぞ。俺は今更、美坂栞の薄っぺらな言い訳や、安っぽい本音を聞きたいわけじゃない。それは美坂栞の問題であって俺にどうでもいい事だ。自分を納得させて慰めるのに俺を利用しないでくれよ、迷惑なんだよね、そういうの。俺は美坂栞の友達でも家族でもないからな」
「うっ!うっ!」
栞はもう堪えきれずに、嗚咽をもらし始めた。ここまで追い詰められ、ここまで冷たくされ、もう精神はボロボロになっていた。だからといって北川がそんな事を気にする事はない。話は何の躊躇も躊躇いもなく、自分のやっている事がもたらす結果を知りながら続けられる。
「だったら何故こんな話をするかだって?今までのお話は、一つは最初に言ったとおり美坂栞に祝うため。そしてもう一つは、無自覚な犯罪者…は違うか、愚者、そう無自覚な愚者に自分の罪状を理解してもらうためだ。それで、だ。ここからが本番。俺は以前こういったよな「本気になるよ」と」
あれは冗談でも、面白半分にでも言ったわけではなかった。北川は後悔していた。あの時に自分がもっと深く釘を刺しておきさえすれば、もしくは事故にでも見せかけて始末しておけば、少なくともこのような不愉快な状況にはならなかった筈だ。いい人間ほど墓に早く埋められて、馬鹿で殺してやりたいやつほど長く生きて、我が物顔で人を陥れる。その最たる事が今日の事象だ。だったら俺も好きにやらせてもらう。
「では本気になった俺は、今度はこの言葉を遅らせてもらおう。背中には気をつけるんだな。先ほどもいった通り美坂栞は非常に幸福な立場にある。一方の相沢祐一は不幸のどん底。大事な恋人と離れ離れのままに息を引き取ろうとしている。しかも死んだ方がマシだと思うほどの苦痛までついてきている。美坂は友人が死ぬ様を何もできないままに見なくてはならない状況に置かれた。水瀬は大事な家族を失いそうになっている。しかも俺に精神的な苦痛と秘密の守秘を強制されている」
最後に残された人物について、そして一番不愉快な事実を話すため、北川は大きく息を吸い込んだ。事実に対するためのささやかな儀式だ。
「そして俺は、大切な友達を失う。しかも非常に納得できない形で失う事になる。他にも相沢には両親がいるし、以前に住んでいた場所には俺たちの知らない友人が大勢いるだろう。みんな不幸なる。葬式で死体にすがり付いて泣くしかないわけだ。いや…この状況じゃ死体付きの葬式が出来るかどうかは怪しいものだが、それはいい。ともかくこれだけ不幸になる人間が大勢いるのに美坂栞だけが幸福。これほど不条理な事はないよな」
その台詞を口にした北川は、もちろん世の中に不条理でないモノで出来ている部分があるとはまったく信じていなかった。あくまで説明するのが面倒だったからこのような言葉を使っただけだった。その事を栞が理解できているかは不明だが。
「ぶっちゃけ他人がどうだろうが関係ないが。話を盛り上げるために論点を広げたが、結論から言えば俺と美坂と水瀬とが不幸になるのに貴様が幸せになるのは腹が立つ。よってだ、美坂栞も不幸になってくれ。嫌だと言っても俺が不幸にしてやるから。それも俺にとって非常に愉快な方法で実行してやるよ。だからそれまでの間は、お願いだから、せいぜい俺の視線に脅えてくれ。お願いだから、自分が何をされるかビクビクしながら生きていてくれ。でないと俺がここまで丁寧に話してやったかいがないからな」
「私を……その為だけにこんな話をしたんですか?」
「そりゃそうだろ。やるんだったら無防備に穴でも覗き込んでいる時に突き落とせば言いだけの事なんだから」
「ころ……」
私を殺す気か?その言葉は恐怖と緊張のせいで中途半端にしか口に出す事ができなかった。よって相手の真意を聞き出す事はできなかった(口に出せたからといって答えが返ってきたとは限らないが)。少なくとも、今のは冗談ですよね、と言い出せるような雰囲気でないのは確実だ。
「話はこれだけ。長い間拘束してすまなかったな。後は好きにしてくれ。せいぜい余生を大事に生きてくだされ」
北川の言うべき事はすべて言い終えたようだ。振り返って、今までの話を聞かないように遠くで、それも何か有ればすぐにでも接触できる位置で事の成り行きを見守っていた名雪のほうへ足を運んだ。名雪は今までの話をだいたい聞いていた。本当に話を聞きたくないのなら、耳を塞ぐなり何なり方法はあるのにそれをしていなかったのだから、それなりに興味はあったのだろう。そんな名雪に対して北川が最初にしたことは、大きく、それも社交の範囲では絶対にならないような深い角度で頭を下げる事だった。
「すまないな、水瀬。面倒な事に巻き込んで。でもまあ、人生ってのは面倒事で構成されているようなものだから、それが今更一つくらい増えたところで我慢できるだろう。いや、俺は馬鹿で口が悪いものだから、こんな風にしか言えないけど本当に悪いと思っているんだ。…ゴメンナサイ」
「本当に…北川くんは口が悪いよ。最低だよ…相手は女の子なのに暴力までふるうなんて…。香里が聞いたら物凄く怒るよ」
「いや、それだけは勘弁してください。あれは言ったとおり手加減した事だし…それにその為に水瀬に口止め料を払ったわけで…」
「私を共犯にする気なんだ」
名雪のその言葉は、現実を正しく認識しているとは思えない台詞だった。現実を認識しているなら、このような女の子がどうこうの台詞ではなく、他者の命を奪おうとしている人間への恐怖なり静止なりの台詞がでてくるはずだ。おそらく名雪は今までの北川が口にした台詞を、趣味の悪い冗談程度にしか思っていないのだろう(むしろ命を脅かすような発言だったからこそ、そのような結論に達したのだろうが。この世にはやたらと殺す殺すと叫ぶ奴は多いが、人殺しは数えられるほどしか存在していない)。そして彼女はまだ祐一が助かると思っている。北川の余裕からそう感じ取っていた。
もっとも、名雪が北川が台詞をつむいでいた時の目を見ていれば、そのような事にはならなかったろう。(唯一目にした北川の狂気は、意図的に忘れる、あるいは冗談の範疇に含める事にしたのだろう。そのような行為は名雪の得意とする事だ)。北川の余裕は、ある意味では諦めと覚悟、経験から生み出されている物でしかないのだから。
「…うーん…俺にとっては、相手が男とか女とかは態度を変える理由にはならないんだ」
北川は少しの間何か考えるそぶりをし、その後ある意味では清清しいまでの笑みを浮かべた。
「気に入ってるか、嫌いか、それだけが大切だ。だから今ここで怒った水瀬に殴られても文句はないぞ。それくらい悪いと思ってるんだ。もし殴るなら、歯を食いしばるから今やってくれ。あ、でも金的だけは勘弁してほしいぞ。俺はまだ男をやめる気はないからな。別に童貞って訳じゃないが、まだまだコレには用があるんだ」
「そんなカミングアウトされても…」
「カミングアウト?それは初体験の相手や状況まで暴露する事を言うと思うんだが。でもまあお望みであるなら。俺の初体験…それは夏の浜辺…」
「いや、言わなくていいから」
「そうか…」
「そうだよ…」
「ところで、俺を殴るの?殴らないの?」
「……いいよ。そんな事したって北川くんの性根がまっすぐになるわけじゃないだろうし」
違いない。その通りだ!実に真実をついた台詞だ。素晴らしいじゃないか。俺の性根が腐っている事を認めてくれるだなんて。北川は心の中で大笑いした。もっともどのような精神が真っ直ぐな精神なのかは知らないが。それにそんなつまらない物を知る必要なんて存在しない。
この瞬間、北川の心の底に巣食っていた祐一を失う事への不快感はなくなっていた。
「あ、美坂妹。最後にもう一つ言うことを忘れていたよ」
北川はどこか明後日の方向を見ながら呆然としている栞の背中に声をかける。その背中が面白いくらいにビクッと震えた。ああ…なんて楽しいんだ(考えてみれば、これが美坂栞を不幸にする仮定の第一歩なのか。楽しくて当たり前じゃないか)。
「今俺が話した事、美坂には黙っていてくれよ。もし話されたら、俺は仮定を楽しむ事を諦めて、結果だけを求めないといけなくなるから。それって美坂妹にとっても色々とより大変な事になると思うよ」
北川の栞の呼称が、美坂栞や貴様から、美坂妹に戻っていた。だからといって、今までの会話がなかった事になるわけもない。栞の様子は終始警戒と恐怖にとらわれ続けられていた。
「きたがわくん…そこまで」
「まあ何事にも踏まなきゃならない手順って奴があるって事だ。形式は形式であるが故に、形式なんだよ」
「で、その手順、形式って奴を私にも説明してもらえるのかしら?」
北川の背後で声がした時の男の表情の変化、人間はあそこまで驚愕の表情を浮かべられる物だと、人生にまたとない経験をする事になった水瀬名雪であった。
その北川は、それはもう油の切れた機械仕掛けの人形のようなぎこちない動きで後を見やった。
「み、み、美坂さん!!」
「はい、美坂さんです」
「い、いつからそこにいらっしゃったんですか!?」
「たった今、手順の辺りからよ」
「そ、それで一体何をしにこられたのですか!?」
「…ちょっと落ち着きなさいよ。もう話が済んだから、呼びに来たのよ」
「そ、そうですか?」
「…どうして疑問系なのよ?」
「ど、どうしてでしょうか?」
「質問を質問で返すな。ともかく深くは追求しないであげるわ。ともかく、」
「香里、祐一はだいじょうぶなの?」
「大丈夫、まだ生きてるわよ。早く会いに行ってあげなさいよ」
まだ、の部分に微妙に力が込められていたが、その事に名雪は気が付かなかった。気づかないで、そのまま祐一が寝込んでいる部屋へと駆け込んで言った。そして栞もそれに続いた。
「ところでさっきの話…もう結論は出たの?」
名雪と話している時とはうって変わって、厳しい顔をした香里が、北川に問いかけた。
「……まだだよ」
北川は無意識のうちに手に力を込めていた。おそらく手のひらには深くツメの食い込んだ後が残っている事だろう。
「そう…でも時間はあまりないわよ」
「だろうな…。ともかく卑怯者にはなりたくないから、制限時間内に決めるよ…」
香里はそこで回答を急かすような真似はせず、黙って部屋へと戻っていた。そして一人残された少年は、一瞬だけ宙を見やり、その場へと座り込んだ。
さて…俺はどうすればいい?
北川は懐に手を入れてそのままの体勢でしばらく考え込むそぶりを見せた。そして何も取り出さずにそのまま手を戻した。
今の気分はタバコだろうと酒だろうと晴らしてくれるようなものじゃない。酒、女、薬、そんな物ではどうしようもないほど心の中に根付いた棘。今の俺の気分を晴らしてくれる物があるとすれば、それは暴力。目の前にある物を全て壊す、周囲を血まみれにし鉄の匂い溺れる。壊す事の出来ない現実を直視しないためのブザマな代替行為。加害者になれる限り、暴力による満足感にまさる物はない。
北川はそこで思考をとめた。その考えこそが、現実を見ないための代替行為にすぎないと気づいたからだ。そして考えるべきことへと思考を進める。
これからどうするべきなのか?決まっている。そんな事は決まっている。
選択を美坂にさせる。そして俺はあの憎むべき、それでいて決して切り捨てる事の出来ない莫迦と、哀れな友人に恨まれる。それも謝れば許してもらえるような事じゃない。おそらく墓の中にまで持っていかれるような恨みを俺は買う事になる。
もちろん水瀬はそれを表に出して抱くような奴じゃない。それでも、二度と以前のような関係、一緒にいて心地よいような友人同士でいる事はできないだろう。
美坂妹はどうだかわからない。まあ、少なくとその原因の一端を担っている限り、その様なことはできないだろう。もっとよほどの莫迦で恥知らずならわからないが。そもそもあの莫迦に何をされようが俺の知った事じゃない。仮に背中を刺そうとしても、黙って刺される理由はどこにもない。
が、美坂はそうはいかない。もしここで俺が美坂にその様な立場を押し付けたら、美坂に相沢の切捨ての責任を負わせるなら…。あの二人は家族なんだ、それも互いに信頼しあっている家族だ。それは壊していいような物じゃない。例えその片割れが自分にとってどれだけ不愉快で、いなくなってくれればいいような人間であろうと。それが全ての面倒の原因だ。
どっちにしても、誰が決めるにしても、どれだけ高邁な理想があろうとも、相沢はもう助からない。切り捨てるしかない。莫迦でない限りはそうするしかない。それ以外の方法がないからだ。
英雄とやらだったら、ここで最後まで相沢を連れまわし、そして助ける事を選ぶのだろう。英雄とは運と実力に恵まれた狂人か莫迦なのだろうな。誰だってまず自分の手の届く範囲で物事を動かさなくてはならないのに。後先の事を考えないで目先の事しか考えられないような輩は楽だろうな。余計な事を考えずに、自分勝手にやっていられるんだから。そこに自己陶酔まで加わるとどうしようもない。
そして俺たちは少なくとも莫迦ではない。だったら俺が恨まれる事を選ぶしかないじゃないか!!
いっそ俺が独断で全てを決め、何もかも自分で背負えたらまだ楽だったろうに。だがそんな事、美坂は許さない。徹底的に平等な精神。現状を把握して、希望の虜にならずくだす相沢への判断。俺に全てを押し付ける事をせず、自分で全てを背負い込む事もせず、俺が全てを背負い込みたがっている事を知っている。俺の自尊心を傷つけず、そして自分も無傷ではいないため。全てを冷静に、表情一つ変えずに俺に語る。そのくせ背中は寂しそう。
なんで…俺にあんな事を言ったんだよ。俺との付き合いも長いんだから、俺がこんな時に何をするかくらいわかっているだろう。莫迦だよな。全部、俺に任せておけばいいのに。辛い事を背負い込む事もないだろうに。黙って全部俺に任せていればよかったんだよ。それで上手くいったのに。俺が、そんな事でお前のことをどうこう思うわけがないだろう。俺に押し付けてくれよ。何もかも面倒な事は全部俺に。俺と違って、お前は無理してるんだから。俺みたいに…。俺みたいに、ココにいても楽しくないだろう。
本当にいい女だ。俺みたいに相手の事なんて無視して突っ走ったりしない。ちゃんと俺の事も考えていてくれている。ああ畜生。帰ったら絶対に本格的にくどき倒してやる。
だからその前にやらなくてはならない事は全てやる。死にかけている人間から恨みと、救いと、絶望に満ちた瞳で見つめられる事。他者から永遠に表立っては抱かれない恨みを持たれ続ける事。永遠に、墓まで持っていかなくてはならない秘密を共有する事。すべてやり通す。
ああ、本当になんて面倒なんだ。何もかもが嫌になる。やりたくない事をしないでいいのなら、なんて素晴らしい事だろう。
そして、友人を失わないで済むのなら、どれだけよかったんだろう。本当に、どれだけ良かった事だろう。
扉一枚を隔てた場所から、一際大きな悲鳴が北川の耳に聞こえてきた。
それに反応して彼は立ち上がった。その声は砂時計の粒が残り少ない事を示す物だとわかっていたからだ。
北川潤は一世一代、一生演じるしかない演技への覚悟を固めていた。
立ち上がり、そして黙って扉のノブへと手を伸ばした北川。だが、その彼の動きは、ノブの10pほど手前で止まった。
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