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二月 命なき名誉5
「情けねぇな…」
北川の脳の命令によって硬直した腕。だがその先端は、本人の意志を無視して、いや、本人の意志を尊重して小刻みに震えていた。
次の瞬間、その腕は壁へと叩きつけられていた。小さな木片が突き刺さり、皮膚が裂け、そこから赤い血が幾らか滲み出す。代償として、手の震えは止まっていた。そしてそれを確認した後に、ようやく痛みがやってきた。
「…………」
こんな時にでも北川は冷静だった。黙って傷を負った腕から木片を取り除き、簡単な治療を施す。そして今度こそノブに手をかけた。
「いい加減にしろっ!」
手は震えてはいなかった。足も震えてはいなかった。ただ、心臓の鼓動のみが己を主張するかのように激しい鼓動を刻んでいた。
俺は、こんなに、臆病だったのか?今まで、ここにいて、ずっとこんな事なかったのに。それなのに、何でココにきてこんな風になるんだよ?自分で決めたことに対して今更なにビビッてるんだ?北川はこれ以上自分がおかしくならない内に中へ入ろうと、全てを終わらそうと手に力を込めた。
「………………」
手は、動かなかった。
「……動け」
動けよ。俺の手だろ。俺の言うとおり動けよ。動け!動け!動け!
だが、北川はどれだけ心の中で叫ぼうとも、手に力を込めようとも、それが形になって表れる事はなかった。それどころから、本人が意思しないところばかりが反応していた。手は再び振るえ、足も立っているのも辛いほどに揺れ動き、吐く息は荒くなっていた。
「俺の腕だろ…」
落ち着けよ。俺は、入って、黙って、美坂を連れ出し、そして戻って相沢を見捨てる事を口にすればいいんだ。それだけだろ。相沢は死ぬんだ。どうやっても死ぬんだ。だったら何を俺がこんなになるような理由がある?
何もないだろう。必要な事をするだけだ。飯を食って、トイレ行って、布団で寝るのと同じ事だろう。いちいちそんな事にビビルやつがいるか?いないだろう。だったら動けよ!
思いが通じのか、ようやく腕は動いた。しかしそれは動いたのではなく、動かされたのであった。本来なら彼が中に入るまでは動くはずのない扉が、内側から勢いよく開かれたのだった。
勢いよく扉が北川へと迫る。突然の事に何とか辛うじて身を引いて避ける事には成功したが、さすがに注意を削がれた精神状態ではそれに続くものまで避ける事はできなかった。
「相沢!?」
ぶつかってきた祐一は、そのまま北川を巻き込みながらその場へと倒れこんだ。
「なっ!?」
北川には目の前で起きた事がまったく信じられなかった。こんな事はありえない事だ。ここに運んできた時点でもう自分で歩けないほどに祐一は体力を消耗していた。しかも彼の容態は休息すれば治るという性質ではない。むしろ時間が経てば経つほど消耗は激しくなっていく。世間の物語でよくあるような、ロウソクの燃え尽きる間際の輝きのような事は起こるはずがない。
北川はハッとした。確かにココなら何が起きても不思議ではない。だがそれは、生きているものに対して不条理な方向にしか働かない。つまり相沢の体が治るわけがない。だとすれば…今のコレはどうなる。こいつは…本当に相沢なのか?いや、違う、考えろ、ここではどうなる事が一番自然なのか。どうなるのが一番自然なのか。どうすれば一番俺達が不利益を被るのか。くだらない遊園地のお化け屋敷を作る時のように、文化祭の出し物を考える時のように考えてみろ。俺だったらこうする、仲間の、友人の死体が襲い掛かってくるなんて…とても陳腐で、そしてとても効果的な演出じゃないか。現に俺は今、襲いかかられるのに絶好のマウントポジションを組まれている。まさにこの前にプレイしたナマモノの出てくるゲームの一般人のように。ゲームだったらこのまま喉笛を噛み切られて終了だ。もし俺がそうなる運命なら…部屋の中にいた連中は………美坂は?
北川はすかさず幸いにも自由な手を刃物にやった。もし祐一が一瞬でも不穏な動きをしたら、その首を切り落とすだけの覚悟を固めていた。
そしてそれを見極めれるだけの機会。北川と祐一の死線が交差した。その時北川の目に飛び込んできた祐一の顔は、どこか別の場所で見た覚えがあった。苦しそうに手を口元にやったその顔を。ああ、そうだ……北川がそれに気づいたときは既に遅かった。それを最後に見たのは、場末の飲み屋だったのだ。
その時に当たりに響き渡った悲鳴は、ココに来てからの中で最も大きいものだった。手にしていた刃物が混乱に任せて振り回さなかった精神力は流石というべきだろうが。これで立場が逆だったら、間違いなく北川はなます切りにされていた事だろう。
そこから先は大変だった。とりあえず病人にされた事を怒るわけにもいかない北川は、自分の顔にされた事を必死で耐えながら、苦悶する祐一を台所まで連れて行った。そしてとりあえずの処置として祐一を水場へと連れて行き、自分に起こった惨劇の後始末も行った。残りの女性陣三人は黙ってそれを見ていた。というよりも気の毒で声を出せないでいた。祐一の突然の御乱交にあっけを取られていたというのもあったが、彼女達の短い人生経験では、北川の身に起こったことに対して適切な慰めの言葉を持っていなかったからだ。ただ、香里だけは別の様だったが。どちらからと言えば何かを堪えているような様子だった。それはもう、必死に腹に手をやって何かを耐えていた。
こりゃ…しばらくは匂いが完全には落ちんな…。北川は鼻についてとれない独特のにおいに顔をしかめていた。先ほどから自分の半径数メートルに誰も入ってこないのもコレが原因だな。
「まったく、人の金だったらいくらでも馬鹿げた事ができるもんだ…」
そう言って彼が手にしたのは、台所にしまってあった酒瓶だった。以前に香里がもってきたの思い出して、物色していたのだった。そしてそれの蓋を開けると、中身を思いっきり頭から被った。酒のアルコールと独特のフレーバーが触れた部分に一気に侵食していく。それは異臭を消すには十分な強さだった。確かに目的を達成する事はできたが、北川の言うとおり自分で買ったものだったら絶対にやっていない贅沢、あるいは暴挙だったろう。
さらにもう一本を取り出して喉に流し込んだところで、ようやく気が静まってきた。さらに彼は残りを無理やり祐一に押し付けた。祐一もさすがに自分には多少の刺激が必要だと言うことわかっていたようで、黙ってそれを口にした。
自分と祐一が落ち着いたところで、何故このような事態が起きたかに考える余裕が北川に戻ってきた。先ほども考えた事だが、本来ならこのような事が起こるわけがない。毒に冒され、生きているだけでやっとのはずの人間が大いに暴れ、しかも油断していたとはいえ人間一人を押し倒すよう事などあるはずがなかった。
「ちょっとは落ち着けよ…オレ」
「何しようとしてるのよ!?」
「煙草だよ…」
「あなたね…今自分が何を頭から被ったか理解しているの?」
「………危なかった」
なるほど…言われたとおりだ。俺はどうにも気がおかしくなっているらしい。美坂がいなかったら火達磨になっていた所だ。
落ち着いて考えるんだ。相沢は確かにくたばりかけていた。そして今はそれが嘘のように普通に体を動かしている。消耗はしているが。それは何故だ?もしあるとすれば…。北川は、とりあえず落ち着いて床に座り込んでいる祐一の腕を取った。
北川の思ったとおりだった。先ほどまであれだけ激しく変色し、腫上がっていた傷口は完全に普段の様相に戻っていた。ただ、先ほどまでの事が幻ではなかった事を証明するかのように二つの小さな穴だけが腕に残っていた。
やはり…毒が抜けている。いやそれだけではない。
「おい相沢、ちょっと手を動かしてみろ」
不可抗力だったとはいえ、さすがに自分のやった事に後ろめたい想いを抱いている祐一は、申し訳なさそうな顔をしながら言われたとおりに手を動かした。そして腕は主人の意思どおり正確な動きを刻んだのだ。
抜けているとかいう生ぬるいレベルの問題じゃない。本来だったらたとえ何らかの理由で毒に耐えられたとしても、破壊された組織までが再生するわけではない。絶対に手を動かしたりできるわけがないのだ。
つまりだ、何らかの莫迦らしい奇跡とやらが起こって、相沢の奴は命を拾ったというわけか?俺が、あれだけ色々な意味で苦悩していたのを他所に、あっさりと完治してくれたわけだ。この時点で、北川の精神の許容は堤防の限界点を越えていた。これだったらまだ、死体が動き出した方が納得がいく。
「おい」
「?」
「失せろ」
その言葉と同時に北川の拳が、祐一の顔に炸裂した。衝撃を受けて、体を仰け反らせた。さすがに本気ではなかったから怪我と呼ぶような物は何も負わなかったが(本気だったら顎が外れていた事だろう)。
「…いきなり何してるのよ?」
ここで、今までは北川の事を思って黙って控えていた香里が声を出した。しかしその声にはそれほど非難の色は混じってはいなかった。それどころから、むしろよくやったとでも言いたそうな声だった。
「いや、あまりに莫迦らしくて、嬉しいのを通り過ぎて腹が立ってきた」
「その気持ち、嫌になるほどよくわかるわ…」
「わかってもらえて嬉しいよ…」
「一瞬、美坂が死ぬところまだ想像したしな…」
「あら、もしそうなったらどうするつもりだったの」
「知らねーよ。まあ最初は悲しんで、あとはいつも通りの生活だよ」
「冷たい男」
「死んだ人間は生き返らないからな。不断な忘れて、ときどき懐かしそうに取り出して楽しむだけだ。それも絶対に現実には影響を与えない程度範囲でだ。それで十分だ。面白事があるならなお更な」
「ま、過程の話よりも現実の不愉快の方が大変そうだから許してあげるわ」
「まあな…生きている間に顔にお好み焼きを顔にぶちまけられる日が来るとは思いもしなかった…」
香里の表情は、必死で笑いの衝動を堪えているかのようだった。今までの深刻さが反動となって、感情の抑制が上手くいってないようだ。よく見れば、香里の横の名雪までが同じように笑いを堪えていた。この理由は香里とは大きく違うが。名雪はただ状況を楽しんでいただけだ。今回の事に関しても、弱っていた祐一がショックによって意識にショックを与えられて元気になった程度にしか考えていない。いや、それが最も好ましい展開だから、そう考えていただけだが。死んでいたらどうなっていたかは
「それで相沢、お前が今ココで殴られているようなった原因を教えてくれるんだろうな?。ついでにもんじゃを御馳走してくれた事に対する謝罪も」
「お好み焼きじゃなかったの?」
その事を説明したのは当事者ではなく名雪だった。
祐一が苦悶の表情を浮かべて苦しんでいる時に、名雪はふと自分の荷物を見た時に思い出した。慌てて荷物を引っ張り出して、それを見やる。それはマグカップでも入ってそうな箱だった。ココへ来る前に、彼女が母親から渡された物だった。
「何か困った時があったら開けるのよ」
名雪はそう言われてそれを渡されていたのだった。そして、今まさに自分達は困っている。大きな期待を込めて箱を開けた名雪の表情は一瞬にして凍りついた。もし絶望という題名の絵を描かなくてはならないとしたら、間違いなく誰もが彼女をモデルに選ぼうであろう見事な表情だった。
名雪の挙動不審に気がつき横から覗き込んできた香里の表情も凍りついた。そこに入っていた物は、彼女にとってもよく見覚えのある物だった。そこにあったのはビンに詰まったオレンジ色の魔物だった。
まあ、良くも悪くも自分の母親は間違った事を言わない人だと言うことを知っていたので、一応試してみたのだ。そして試すとは、被験者の体内へそれを送り込む事だった。
効果は絶大で、被験者は口にした瞬簡に飛び上がり、体長を全快へと持っていった。さらには北川に対して見事な攻撃を仕掛けることにまで成功したのだ。せめてコレが普段の正常な状態なら北川もこのような不運に見舞われなくとも済んだであろうが、弱った体に劇薬を流し込まれたのだ、祐一の行為を責める事は出来ないだろう。
この時に香里は、祐一の傷口が見る間に正常な状態を取り戻しているのをハッキリと目にしていた。そしてその事に対して驚きは覚えたが、疑問は覚えなかった。その事で、自分も随分と神経が図太くなったものだと、北川が攻撃を食らった後に苦笑している。
そして被験者である祐一が後に彼女に対して「自分が同じ立場だったら同じように食べたのか?」との質問にたいして「そんな事するわけないよ」と返している。
そんな理不尽極まりない状況の推移を聞かされた北川は頭を抱えて、とりあえずはこの言葉を口に出した。
「…水瀬」
「なに」
「さっき渡した金…返してくれ」
「そう言うと思ってたよ」
つまりアレか?俺の苦悩は何の変哲もない(?)ジャム一つに覆されたわけか?あまりに馬鹿馬鹿しくて、本来なら喜ばなきゃならない所なのに全然喜べないじゃないか…。こんなに自分の気持ちを否定されたのは初めてだ…。北川は何だか間違った、それでいてこの場に居るものには決して笑うことの出来ない複雑な感情を抱いていた。
「ま…まずは喜ぶべきなのか?」
憮然として状況がつかめていない祐一を見ながら北川が呟いた。
「ま、それで間違ってはいないと思うわ」
なるほど、こういう時にも自分の心境を理解してくれる相手が居るって事は随分と嬉しい事らしい。本当に今、自分の横に立っている女は最高に素晴らしいな。だったら、彼女の肯定した事をしようじゃないか。北川は今の状況にようやく素直に感謝する心の準備ができたので、本当に嬉しそうな顔で、本当なら抱きしめて言ってもいいような事を、控えめに口に出した。
「よかったな相沢。命拾いして」
その後はもっと大変だった。ようやくの事で祐一が助かった事を理解した栞が、祐一に泣いて抱きついたのだ。しかも泣いた後にも訳のわからない事を口にしながらさらに強く泣くのだから、さすがの祐一もそれを拒むような事が出来なかった。引っ剥がそうものなら後にどうなるか分かったものではないからだ。
さすがにこれ以上ほうっておくわけにも行かず、姉の許可を得た後で北川が彼女を引っ剥がした。そしてその時に耳元で小さく呟いたのだった。
「嬉しくなったついでに、ちょっとオレにも付き合ってもらえないかな」
「さっきは悪かったな」
「………」
「そう警戒するなよ。話しづらいじゃないか…」
「さっきは悪かった、謝る」
「……」
「俺が悪かった」
そういうと北川は、今まで栞にやってきた事がウソの様に深く頭を下げた。栞の顔がきょとんとする。目の前で何が起こっている?
「…………い」
空白が続く事数秒。ようやくの事で目の前で起こっている事態を理解した栞は大きく息を吸い込んだ。
「今更なにを言うんですか!アレだけの事を言っておきながら…」
「美坂妹にも分かるだろ、あの時の俺たちは普通じゃなかった。相沢が死にそうになって精神がボロボロだった」
「だからって…」
「さっき水瀬にも言った事だけど、俺を殴って気が済むならそうしてもいいし、土下座しろって言うならするよ」
脅迫路線は逆効果だった。
「相沢に関することも悪かったよ。まあ、これからは俺も影ながら応援させてもらうよ」
甘い言葉が必要なら幾らでもくれてやる。
「上手くいけばいいな。そういう意味じゃ今の状況は好都合かもしれないし」
だから……これ以上もう相沢や美坂を困らせないでくれよ。馬鹿みたいな事をしないでくれよ。
でないと……今度は本当に……一番苦い薬を飲ませる事になるからな。
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